異国の子
彼女は、いわゆる帰国子女だった。
「まだそんな言葉、その頃はなかったけどね。」
と彼女は笑う。
「だって、私、まだ五歳だったんだから。」
現在の彼女は落ち着いた物腰の中年女性で、僕からしたら随分と人生の先輩に見えた。彼女が小さな女の子だった姿なんて、ちょっと容易には想像できない。
「それに、居たのは一年だけだったし。」
「でも、むこうの言葉とか覚えてません?」
「ほとんど覚えてないなぁ。現地の幼稚園に通ってたから、当時は随分と達者に喋ってて、帰国直前には弟との会話もほとんどスペイン語だったらしいけど、帰国したらまたすっかり日本語に戻っちゃった。」
「それは勿体無かったですね。」
「まあねぇ。けど、言葉ってわりにそういうものじゃない? 日常的に使ってないとすぐ退化しちゃう。」
確かにその通りだ。彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、僕は頷いた。大学時代、随分熱心にやった第二外国語のフランス語も、最近ではかなり怪しくなっていた。
「じゃあ、むこうでの生活とかももう忘れちゃいました?」
「それがそうでもないのよねぇ。」
カップの縁に付いた口紅の跡を拭いながら、彼女は考え深げに首を振った。
「結構、覚えてるの。多分、子供心に色々と印象的だったんじゃないかな。日本とは全然違うから。」
「どんなところが?」
興味を引かれて僕は尋ねた。もともと他人の体験談を直接その本人から聞くのが好きだった。
「そうね、例えば、貧富の差、とか。」
「貧しい人が多いってこと?」
「うん、だって子供が働いてるんだもん。」
メキシコでは交差点で車が止まるとわらわらと少年達が寄ってきてフロントガラスをボロ布で拭き、小銭をねだる。街角でチクレと呼ばれるガムの箱を片手に売っているのもたいていは少年だ。
そして、物乞いをする女達。道端にずらりと並んで座り、汚れたショールの中には大抵赤ん坊が抱かれている。両親から渡された数センタボの銅貨を褐色の手のひらにそっと落としてやる。その手は、かさかさに乾いていた。彼女は、その時の情景を今でもありありと思い浮かべることが出来るという。
「当時の私には、その母親達はとても年を取って見えたけど、でも、今にして思うと赤ん坊がいたってことは、そこまでの年齢じゃなかったはずよねぇ。それとも、あの赤ん坊たちは、本当は彼女達の子供じゃなかったのかしら。」
と、彼女は首をかしげる。そうした貧しい人々の大抵は、浅黒い肌に黒い髪、小柄で華奢な体つきをしたインディオと呼ばれる原住民の子孫達だった。
「一方ね、お金持ちは、日本よりずっとずっと大きくて立派な家に住んでて、庭もね背の高い鉄柵がぐるっと取り囲んでてて。」
クリスマスが近づくと、ピニャータ割りという遊びをする習慣がかの国にはあって、それはどういうものかというと、大きな素焼きの壺に華やかな色紙を房状に切ったものを貼りつけて飾りたて、星だの動物だのの形を作り、中に飴だのチョコーレートだのガムだのと一杯に菓子を詰める。これがピニャータだ。それから、ピニャータを紐で縛って木から高くつるし、子供たちが皆で歌を唄いながら順番に棒を持って叩く。やがて、見事壺が割れると中に入っていた菓子が飛び散り、子供たちは我先にと夢中になって拾い集める。
「なんか楽しそうだな。スイカ割りと棟上式や結婚式の餅撒きや菓子撒きを合体させてみたいで。」
うんうんと彼女も頷いた。
「そうなの、そうなの。ちょうどそんな感じ。」
しかし、彼女がピニャータ割りのことをよく覚えているのはそれが楽しかったからだけではなかった。
ある日、彼女は両親と共に誰かの家のパーティーに招かれた。
その日も、庭にピニャータが用意されていた。壺が割れると、集まっていた子供たちは歓声を上げ、夢中で地面の上に落ちた菓子に群がった。無論、小さな女の子だった彼女も一緒になって熱心に拾った。本当は彼女の好物は、日本産の塩煎餅だの酢昆布だので、外国産の毒々しい色のキャンディの味は余り好きではなかったが、食べる食べないは別にして、そうやって拾い集めること自体が彼女の子供心をわくわくさせた。もう
時刻は夕方で、冬の庭は既に薄暗かった。門の近くにしゃがみこんで、地面に目を凝らしていた彼女の目に不意に手が伸びてきた。それは庭の外、頑丈な鉄柵の下からだった。びっくりして顔をあげると、庭の外の路上にがやがやと数人の子供達がいた。柵の下から伸びた手は、懸命に指を伸ばしてその先に落ちていた金色の包み紙のキャンディを掴み取ろうとしてい彼女よりかなり年上に見える少年だった。薄汚いシャツを着た他の子供達も柵の隙間から細い腕を差し込んで、庭の端に落ちた僅かな菓子を掴もうとわいわい騒いでいた。彼女はその光景を目を見開いて眺めた。それからそろそあとずさり、そのままくるりと向きを変えると急いで大人たちの居る家の中へと駆け戻った。明るい室内は、人々のざわめきと喧騒と笑い声とたばこの匂いに満ちていた。いつもより華やかに着飾った母が、娘の小さな姿をみつけ、怪訝そうに近づいて、どうしたの?と尋ねたが、彼女はただ黙って首を振った。
「今でもたまに、その時のことを思い出しては考えることがあるの。」
彼女は組み合わせた手のひらの指先を胸の前でとんとんと叩きながら、遠い目をした。その爪は綺麗に磨かれ、淡い色に塗られて光っていた。
「私は庭の柵の内側に居てあの子たちは外側に居た。手が届きそうな程、お互い近くに居たけど、立場は全然違う。」
「キャンディがもらえる側ともらえない側と。」
僕は言葉を添えた。
「うん、そう。そういうこと。」
彼女は真剣な表情で頷いた。
「まだ五歳だったけど、私はその時、この世界の残酷さみたいなものを理解したの。なんというか、実感として。」
確かにそれはたった五歳の女の子にとって、なかなか重い体験だっただろう、と僕は考えた。少なくとも自分が五歳だった頃、そんな経験はしなかった。身近な周囲の子供達は、良くも悪くも、自分と似たりよったりの境遇にいた。そこには、決定的な差異のようなものをどこを探してもなかった。
「そういう体験は、その後の人生に何か影響を与えたりしましたか?」
彼女はしばらく考えんだ。
「どうなのかな・・・。よくわからない。でも、時々、今の生活を含めて、自分の人生がほんの偶然で成り立っているような気がするの。」
「それはつまり、ひょっとしたら、自分もキャンディをもらえない側の人間だったかもしれない、ということですか?」
「ええ、そう。そんなようなこと。」
「僕だって、ひょっとするとキャンディをもらえない側だったかもしれない、と。」
「まあね。誰だってそう。」
僕達はそこで沈黙し、この話題を切り上げた。思ったより遅い時刻になっていたので、僕はそろそろ帰ると暇(いとま)を告げた。
コートを着て玄関を出ると、いつのまにか小糠のような雨が降り出していた。
「じゃあ、気をつけて。」
「ええ。」
「また電話するね。」
「うん、待ってますよ。」
僕は彼女に向かって手を振り、だんだん雨脚を強くして降りしきる冷たい雨の中を傘を差して歩き出した。