宝珠

診察室に、医者と女が居た。

女は診察台に横たわり、医者は手馴れた手つきで処置を施してゆく。治療中、女の視線はあてどなく中をさまよい、それから、ふとした拍子に天井近くの壁に掲げられた額に向けられると、筆で書かれた墨痕を熱心に目で追い始めた。

「あれ、随分カッコイイお手紙ですね。」

それは医者に宛てられた一種の感謝状のような手紙であった。彼は女の見ているものに気づくと苦笑した。

「あれは、僕の患者さんから貰ったんです。宝石商の人で、随分年も離れているのに、なぜか僕を気に入ってくれたらしくて、ああやって手紙をくれたりするんです。宝石商だけど出家もしていて。」

「ああ、だから、字がお上手なんですね。」

今の時代、料紙に筆で勇壮な文字を書いた手紙を送り付ける人は珍しい。しかし、僧侶となれば納得である。手紙の中で、彼は治療に対する感謝の言葉に添えて、かの医者を宝珠を持った龍に例え、その未来への可能性は無窮であると断じていた。

「でね、彼がね、僕には仏性が足りないって言うんですよ。そんなんあるわけないじゃないですか、僕なんてただのチンピラ開業医なのに。」

ちなみに女は、常々彼のことを若きメフィストフフェレス的雰囲気を漂わせていると感じている。その風体及び言動からして、もっとも仏性から程遠いそうな人物である。

「だから、寺に修行に行けって。無理、忙しいって言ってるのに、いきなり電話掛け始めて。その時、温泉入ってたんだけど。」

果たして温泉に携帯電話を持ち込んでもいいのか? 一歩間違えは盗撮容疑の疑惑をかけられそうだ。そして、その時入っていた温泉というのは、先週女も訪れたばかりの山中の立ち湯であるという。

「その電話した先っていうのががものすごく偉い高僧で、もう年だから早く会っとかないと死んじゃうからお前会っとけ、って。めちゃくちゃでしょ? 承知する方も承知する方だと思うけど。」

それで、押し切られる形で修行に行ったんだそうである。

「その高僧が言うにはね、僕と彼は前世でも来世でも双子だったって。そういう縁(えにし)なんだ、って。そしたら、それを聞いた宝石商の人が機嫌を悪くしちゃって。自分は今までそんなこと言われたこと無いのに、って。」

「あはは。」

「でもね、その宝石商の人もすごい人なんですよ。ロスチャイルドとかロックフェラーとかって居るでしょう? ああいう人達とも知り合いで。」

なんだか話が急に大分と胡散臭くなってきた。

ロスチャイルドが日本に来る時は、その宝石商の人がいつも彼を案内してるんですよ。」

「温泉とかに?」

「いや、東京と京都ですね。」

「はあ・・・。」

宝石のコレクションも凄いくて、僕も見せてもらったけど、ギリシャ時代のとかロシアの王冠とかね。美しいだろう、って。彼に言わせると、仏教は宇宙の起源からの原理を説明していて、地中に眠っていた宝石は、その宇宙の一部で、人の手で掘り起こされてからも何千年もの昔から変わらない。その純粋さと永遠の美しさこそが真理なんだって。でも、僕にはその宝石の暗い歴史の中で一体どれらけの人間がそのために死んでいったんだろうって考えると、不吉なものにしか思えない。そう言ったら、彼、怒っちゃって、以来、連絡ないんです。それまでは、しょっちゅうラインが来ていたんだけど。」

医者はそう話を締めくくり、治療の終わった女は診察台から身を起こした。

「もし、宝石とかにご興味あったら、今度、彼のサロンを紹介しますよ。」

会計を済ませ、経過を見るための来月の予約を取りながら、医者からそう勧誘されて、女は曖昧に微笑んだ。それが単なる社交辞令なのか、本気の言葉なのかよくわからなかった。またたとえ本気であったとしても、そんな豪奢な世界を覗き見たりすることが実際に出来るのだろうか?

「今日聞いたお話、とっても面白かったです。」

女はそれだけ告げて、すっかり暗くなった夜空の街へと医院を後にした。バス停に向かって、コツコツとヒールの音を歩道に響かせて歩き出しながら、女は先ほど医者から聞いた話の一体どこまでが本当なのかと訝しんだ。しかし、そうした疑いとはまた別に、彼の話は女の心に奇妙に鮮やかな印象をくっきりと残した。深く深く地球の奥底に埋もれた宝石の原石について、女は思いを馳せた。異国の王冠の上に燦然と輝く巨大な金剛石や血のように赤い紅玉を想像してみた。そして、それらとはまるで別世界に棲む天界の龍が、宝珠を握りしめ渦巻く雲の乱れる空を高く高く翔ける昇る姿とそれをじっと見入る僧の姿が幻のように瞼の裏に浮かぶ気がした。