2017-09-01から1ヶ月間の記事一覧

南国果実

東京の自宅を予約していたタクシーで出発したのは、その日の夜明け前で、地下鉄もモノレールもまだ動き始めていない時刻だった。空港までの道すがら、空はどんどん白み、西には淡い色の月が朝日を帯びたビルの群れの間にぽっかりと浮かんでいた。一日の活動…

祖母と羽織

祖母を訪ねる時、私はしばしば着物を着て行く。私の着物姿を彼女が喜ぶからだ。祖母は着物好きだった。年を取ってだんだんと帯を結ぶのが億劫になってきたらしく、自分が着ることはめったになくなったが、孫娘がネットオークションで落札した古風なアンティ…

異国の子

彼女は、いわゆる帰国子女だった。 「まだそんな言葉、その頃はなかったけどね。」 と彼女は笑う。 「だって、私、まだ五歳だったんだから。」 現在の彼女は落ち着いた物腰の中年女性で、僕からしたら随分と人生の先輩に見えた。彼女が小さな女の子だった姿…

雪の朝の行進

大雪警報が出た。そして、予報通りに夜半少し前から、雪は静かに降り始めた。 「大雪になるみたいだね。」 「明日はまず雪かきだね。」 妻と夫は互いに頷きあい、窓ガラス越しに夜の外へと目を凝らした。道路は既に暗闇にもはっきりとわかるほど、白く雪に覆…

指輪

駅前にあるイトーヨーカード前に買い物客が休息するためのベンチがいくつかおかれている。そのうちのひとつに腰を下ろしている女性の手元を、私は少し離れた場所からじっと見詰めていた。あまり不審がられないように、怪しい人物だと思われないように、さり…

宝珠

診察室に、医者と女が居た。 女は診察台に横たわり、医者は手馴れた手つきで処置を施してゆく。治療中、女の視線はあてどなく中をさまよい、それから、ふとした拍子に天井近くの壁に掲げられた額に向けられると、筆で書かれた墨痕を熱心に目で追い始めた。 …

温泉宿

山裾の奥、谷川に沿って曲がりくねった道を登ったその先に、目的の建物はあった。茶色い板張りの古びた構えの前に狭い植え込みがあった。そこから先は登山道で、旅館も人家もすっかり途絶える本当の山奥だ。すぐ脇を流れる水音が絶えず耳に響き、木の間に小…