雪の朝の行進
大雪警報が出た。そして、予報通りに夜半少し前から、雪は静かに降り始めた。
「大雪になるみたいだね。」
「明日はまず雪かきだね。」
妻と夫は互いに頷きあい、窓ガラス越しに夜の外へと目を凝らした。道路は既に暗闇にもはっきりとわかるほど、白く雪に覆われている。見詰めている間にも、さらさらとした雪が、際限なく落ち続けて、裸の冬の木々の梢も、電線も建物の屋根も何もかもをも覆ってゆく。
「早起きしないとね。何時集合だっけ?」
「七時。」
「じゃあ、目覚ましかけとかないと。」
住んでいるアパートの駐車場は、住民が共同で雪かきする決まりになっている。
そこは寒くはあるものの、雪はそれほど積もらない地方だった。冬の日、澄んだ空は真っ青に晴れ渡り、夜には怖いほどの光星々が鋭く輝く、そんな土地でだった。どこまでも底冷えがする。気温は毎晩氷点下に下がり、水道も干してある洗濯物も何もかもが凍る。しかし、湿気は少なく、たまに降る雪の量もさほどではない。これは暖かい地方からこの地へ越してきた彼らには、やや予想外だった。寒いところでは雪も多いものとなんとなく信じ込んでいたからだ。実際、彼らがここへ移り住んで四年になるが、記憶に残るほどの大雪の経験はない。せいぜい数センチといったところだった。しかし、今年は違った。ここ数年にない大雪の年になると予報され、県内のあちこちで記録的な積雪量が報じられた。それが今夜いよいよ、この街にもぶ厚く垂れ込めた鉛色の雪雲が押し寄せてきたのだった。
布団の上では、彼らの小さな息子が目を閉じ、まつげの影をふっくらとした頬に落として、規則正しく寝息を立てていた。あと一月余りしたら、二歳になる。歩き出して以来、赤ん坊時代のふわふわとした肉付きはいつの間にか消えて、体つきもしっかりとしてきた。日中、動き回っている時は、もはや赤ん坊ではなくすっかり小さな男の子である。しかし、遊び疲れてぐっすりと眠りに落ち、濡れた唇をかすかに開いて呼吸をはじめると、たちまちそこには赤ん坊の頃の面影が戻るのだった。妻は幼い顔をそっと覗き込んだ。
「朝になって雪がたくさんなのを見たら、きっとびっくりするね。」
「うん。初めてだもんね。すっごく喜びそう。そりを買っとけばよかった。」
「ああ、そういえば売ってた。雪かきシャベルとか置いてあるとこに。」
「また、買いに行こう。紐が付いてたから、乗せて引っ張ってさ。」
「そういうのって、憧れた。」
妻も夫も、学生になってスキー場に行き、そこで初めて大量の雪を見た人間であったから、そりだの雪だるまだのかまくらだの、想像するだけで限りなく憧れがむくむくと膨らむのであった。
その夜、雪はしんしんと降り続け、街中のあらゆる場所をすっぽりと白く覆いつくした。
冬の遅い夜明けはまだ遠く、部屋の中は薄暗かった。最初にむくりと起き上がったのは、夫の方だった。カーテンを少しだけ開いて外へ目を凝らし、それから、大急ぎで妻の布団の横に膝を着くと、ちょんちょんと肩をつついた。
「ねえねえ、すごいよ。」
寝ぼけ眼(まなこ)で妻は彼を見上げた。
「雪すごい。真っ白。」
弾かれたように飛び起きると、彼女も窓際に飛んでいった。
「ほんとだ、すごいすごい。」
興奮するのも無理はなかった。一夜にして、雪は外の景色を変えてしまったっていた。街は、一面の砂糖菓子で出来上がっていた。雪は既にやみ、視界の中で動くものはなかった。街灯の明かりに照らされて、青白く光る吹き溜まりがそこここに積みあがっている。道路にも歩道にも、足跡一つ、轍(わだち)の一つも残されてはいなかった。まだだれも手を触れていない雪景色だった。
「車、使えないね。」
「多分、そのうち除雪車が来るよ。そしたら、通れるようになるよ。」
「そっか、そうだね。でも、なんか勿体無いね。」
「新雪だもんね。」
声を押し殺して喋っているつもりだったが、思いのほかうるさかったのか言い合っている二人の背後で身じろぎする気配がした。はっと振り返ると、目を擦り擦り、息子が布団の上にちょこんと正座していた。
「ああ、起きたの。」
寝起きの今にも泣き出しそうな気配に、妻は素早く幼子を抱き上げた。
「ほ~ら、見て見て~。すごいよ~。」
あやしながら窓の外を見せても、男の子はきょとんとして母親の顔と水滴に濡れて光る目の前のガラスを交互に見比べるばかりである。
「わかんないみたいだね。」
「ちょっと、わかりにくいかも。」
「暗いしね。」
夫はしばし思案の後、
「連れて行かない?」
と提案した。
「外に?」
「うん。除雪車とかが来る前にさ、まだ誰も踏んでない所を歩かせようよ。」
「それ、いいね。」
早速、息子にスノースーツを着せ手袋をはめ、フードの上からぐるぐるにマフラーを巻き、仕上げに小さな長靴をはかせた。まだ暗いので懐中電灯も用意して、準備は万端であった。
ドアをそっと閉じて、息を殺して階段の踊り場を降りた。外に出ると、外気の冷たい空気がさっと頬を刺した。耳が痛くなるほどあたりはしんとして、大人二人が雪を踏みしめるとぎゅっぎゅっというくぐもった音だけがいやに響いた。いつもと違う気配を察したのか、父親の腕に抱かれた男の子は、目を丸くして父親の上着の襟を掴んでいる。
深く雪の積もった広めの歩道に出たところで、
「ほい、もう歩いてよし。」
と下に降ろされても、しばらくそのまま固まっている。それから、街灯の光が照らし出す丸い輪の中で、その場にしゃがみこむと手袋をはめた小さな手のひらで不思議そうに真っ白な雪の表面を撫でた。それから、不意に何かに気が付いたかのように喜びの声をあげると、立ち上がり、長靴のつま先で雪を蹴った。サラサラした粉雪が飛沫のように散った。そして、とっとっと、と勢いよく歩き始めた。両親はその後ろを見守りながら付いてゆく。男の子が着ているスノースーツは、紺色に白が入っていて、着膨れてトコトコと歩く後ろ姿はさながらちょっと大き目のペンギンのようだった。青白く光る手付かずの雪の上に、元気の良い影法師が揺れた。吹き溜まりに足を取られそうになるたび、慌てて両親が左から右からはらはらしながら手を取って支えたが、すぐに繋いだ手を振り振り払って一緒に歩くのを拒んだ。そして、嬉しそうにまた一人で先に立って歩き出した。
「なんだかちゃんと目的地があるみたいな歩き方。」
「きっとポストじゃない。」
「ポスト?! なんで?」
意外すぎる妻の言葉に、夫の声はちょっと大きくなった。
「最近、お気に入りでさ、散歩の時にも買い物の時にも必ず寄るんだよね。」
果たして男の子が目指していたのは、四角くて赤い郵便ポストであった。雪を掻き分け掻き分け、ようやくたどり着いたポストの冷たい鉄の表面を男の子は満足げに手のひらで叩いた。そして、さも得意そうに両親の方を振り返った。
いつのまにか静かな黎明が空には広がっていて、ぼんやりと雲の内側から光が差し、もののあわいがぼんやりと見え始めていた。街も少しづつ起き出す気配がして、遠くで車のエンジンがかかる音が聞こえ、新聞配達が苦労して雪の坂道をバイクを押して登って来る。
「そろそろ帰る?」
「うん。雪かきもあるしね。」
父親が抱き上げると、男の子はイヤイヤと頭を振って、手足をバタバタさせた。ポストに向かってなおも懸命に手を伸ばそうとする。
「また、来よう。今度はそり持って来よう。あ、その前に買いに行かなきゃ。」
男の子はそんな父親の言葉をわかっているのかいないのか、それでもそのうち諦めて大人しく抱かれた。そして、その腕の中から一面に広がる白銀の世界を黒目がちの瞳でいつまでもじっと見詰めていた。