指輪

 駅前にあるイトーヨーカード前に買い物客が休息するためのベンチがいくつかおかれている。そのうちのひとつに腰を下ろしている女性の手元を、私は少し離れた場所からじっと見詰めていた。あまり不審がられないように、怪しい人物だと思われないように、さりげない風を装いつつ、しかし、私は真剣に彼女の指にはまった明るいオレンジ色に輝く宝石を眺めた。その女性はごく一般的なみなりで、年齢は初老にさしかかったあたり、がっちりした小太りの体格で、私が吸い寄せられるように目を離せないその指輪も、太い指にがっちりと食い込んでいた。

 彼女の指輪がなぜそんなにも私を引きつけたのかといえば、それまで私がオレンジ色の石というものを見たことがなかったからだ。透明なのはダイヤモンド、ルビーは真紅だし、エメラルドは緑、サファイアは紺、私の誕生石であるアメシストは紫・・・。

「ねえ、ママ、もう行こうよ。」

「行こ~。」

左右から次男と長男に繋いでいた手を引っ張られた。それぞれの全体重をかけた重みに私は俄かに我に返り、促されるままに歩き出した。地下の食料品売り場で買い物をしながらも、先ほど見た石の色が目の奥に焼きついて、消えなかった。

アンパンマンのパン買う?」

長男に尋ねられ、私は機械的に頷いた。

「うん、一つづつね。どれがいい?」

 パンを選び終えると、今度は息子たちはどちらが買い物カートを押すかで騒がしい小競り合いを始めた。それぞれが互いを押しのけあって、小突かれた方が怒って地団太踏む。

「ね、ほら、よしなさい。もうレジ行こう。」

周囲の人目を気にして小声で叱りつつ、買い物もそこそこに私は子供達を引っ張り、逃げるようにして賑やかな売り場を足早に離れた。

 翌日、子供達を幼稚園に送った後、私は昨夜熟考した末にたどり着いた結論を実行に移した。百貨店に電話してみたのだ。宝石店は知らないが、たまに行く百貨店になら宝飾品売り場があるはずだった。

 私の読みは当たった。名前はわからないが、明るいオレンジ色の石を探している、と告げると、電話口で話を聞いていた宝飾品売り場の担当の人は、

「それでしたら、おそらくメキシコオパールかと。」

と自信ありげな声ではきはきと断定した。

「ああ、そうなんですか・・・。」

こうも即座に石が挙がるとは予想していなかったので、いささか私はびっくりした。

「こちらの売り場にも数点ご用意しております。よろしければ、ご覧になりますか?」

テキパキとした口調でそう問われ、一瞬、私は考え込んだ。それまで、私は自分が単にその石の名前を知りたくてわざわざ電話を掛けているのだと思っていた。自分が売り場に行くことなど、全然考えていなかった。しかし、こうして尋ねられるてみると、実のところ、自分がどういようもなくその石を欲しがっているということに気付いた。昨日、あの女性の指にはまった指輪を見たその瞬間から、私はそれにひどく魅了され、この上ないほど強く求めていたのだ。今日のお昼前ぐらいに伺います、と私は返事をして電話を切った。

 宝飾品売り場などこれまで足を踏み入れたことはなかったからいささか気後れした。婚約指輪も結婚指輪も買わなかったので、全く縁がなかったのだ。しかし、担当してくれた売り場の若い女性は親切な物柔らかな態度で、あらかじめ用意しておいてくれたらしい三つほどの指輪と、ネックレスを二つ見せてくれた。

 私が探していたオレンジ色に輝く宝石が、目の前にあった。どれも丸や楕円の形に整えられて、オレンジ色の中にかすかな緑や黄色が入り混じり、複雑な光を放っていた。指輪はそれぞれが少しづつ違ったデザインだった。石の大きさが違ったり、周囲に飾られた屑ダイヤの配置が微妙に異なったりしていた。そのそれぞれを注意深く私は眺めた。

「よろしかったらはめてご覧になられますか?」

勧められるままに、私はひとつづつ指輪を試していった。自分の指にオレンジ色の冷たい炎が灯るのをためすがめす、じっと眺めた。

 選ぶのに、それほど時間はかからなかった。

「これにします。」

私が指差したのは、円形のメキシコオパールの指輪だった。石の両脇に小粒のダイヤがいくつかあしらわれている。

「あ、はい。」

店員の女性は、いささか驚いた様子だった。私がこんなにも即決するものとは思っていなかったらしい。しかし、私には逡巡する必要がなかった。最初から、石を手に入れると私は決めていたからだ。幸いにも、ちらりと素早く見ておいた値札は、手の届かない額ではなかった。オパールは、比較的安価な宝石だった。少なくともダイヤモンドやエメラルドに比べれば。

「それでは、サイズを測らせていただきます。あと指輪にお日にちですとか刻印するサービスも承っておりますが、何かの記念とかでいらっしゃいますか?」

当惑して私は首を振った。記念日?そんなこと、考えたこともなかった。そもそも誕生日でも結婚記念日でもなんでもない。

 幼稚園のお迎えの時間に間に合うように、それから慌てて私は帰宅した。以来、それからの日々を数日後には出来上がってくるという指輪を楽しみに、私は過ごした。二人の幼い男の子達の世話は、いつも通りに気忙しく、慌しく、夜にはすっかりくたびれ果てたけれども、それでも、何かしら心に浮き立つような思いがあって、朝になれば無理やりにでも布団から起き上がることが出来た。ああ、自分はだいぶ疲れていたのだな、とようやく私は気付いた。毎日の疲労が、少しづつ少しづつ目に見えない負債のように積み重なっていっても、次々と降りかかる雑事に追われるように生活しているとそれに気付く余裕もないのだ。それに、私の日常は、どの母親もこなしている程度の労力を費やしているに過ぎない。

 でも、ここ数年で私はこんなにもクタクタになっていたのだ。夜、泥のように眠っても、朝、子供たちの騒がしい声にもなかなか目が開かないほどに、精神も肉体も擦り切れるだけ擦り切れ、疲弊し・・・。しかし、そんなことは、誰にも言えない。言ったところで誰にもどうにもできないし、愚痴ったところでどうにもならない・・・ああ、そうか、と私はすとんと腑に落ちた。だから、私はあの石が欲しかったのだ。

 指輪が出来上がってきた日、私はいそいそと袋から小箱の取り出し、蓋を開けた。オレンジ色の炎のような光が私の目を射た。そっとはめてみると、その冷たく明るい小さな炎はそのまま私の薬指に宿り、強く眩(まばゆ)く煌(きらめ)くと、その光が自分の心をしっかりと守護するのを私は確かに感じた。