温泉宿

 山裾の奥、谷川に沿って曲がりくねった道を登ったその先に、目的の建物はあった。茶色い板張りの古びた構えの前に狭い植え込みがあった。そこから先は登山道で、旅館も人家もすっかり途絶える本当の山奥だ。すぐ脇を流れる水音が絶えず耳に響き、木の間に小さな木製の橋が見えた。深山と里山の境界線ぎりぎりに、その温泉地はあった。カメラを片手に建物の正面へ向かってぶらぶらと歩いてゆくと、

「お泊りですか?」

と玄関で待ち構えていた黒服の男性から、やや意外そうに尋ねられた。多分、我々の姿があまりに軽装で、日帰りの遠足にでも訪れたような雰囲気だったからだと思う。実際、私の籐製の手提げには、化粧品と着替えの下着類しか入っていなかったし、連れ合いは小さなナップサックを背負っているだけだった。しかし、私が頷くと、男性はきちんと表情を押し戻し、丁重に中へと案内してくれた。連れ合いは、彼に請われるまま車の鍵を渡した。宿泊客が乗りつけた車は、宿近くの道路の路肩広範囲に渡って点々と停められていた。おそらく山の中のこの場所に、駐車場を作る余分な土地はないのだろう。連れ合いも少し先の路肩に適当に停めた。ちなみに我々は軽トラで堂々と乗り付けたのだが、そんなことはおくびにも出さず、澄ました顔で案内人の背後に続いた。

「いらっしゃいませ。」

という複数の声に出迎えられ、中に入ってすぐ靴を脱ぐように促された。そういうところは、昔ながらの温泉旅館らしい。しかし、招き入れられたロビーは、重厚なソファーが置かれ、調度や内装は洋風である。立派な革張りのソファーに腰を下ろすと、傾斜した座席のせいでそのままずるずると後ろにお尻が滑り落ちて、パタンと頭が背もたれに倒れこんでしまう。

「ねえ、これ、すごく滑る。」

「ほんとだ。」

そうやってくすくす笑っている間に、和服姿の若い女性が近づいて来て、申し訳なさそうに、チェックインの手続きをと声をかけた。

予約していた和室は四階にある和室で、山側の壁は、全面がガラス張りになっていて、木々がまるごと眼前に迫って見えた。重なり合った枝葉の間から、谷川を流れる水の白い飛沫が所々に見え隠れする。部屋に付随した半露天と呼ばれる浴室は、更に素敵だった。ヒノキの浴槽が置かれた側には壁がなく、外気がそのまま吹き込み、遮るものなく外の景色が眺められた。掛け流しの湯は、こんこんと水面から沸きあがって絶え間なくは流れ出ている。脇にある棚には、湯に浸すための匂い袋が説明書きと共に用意されていた。

 一通り部屋の探索を済ますと、仲居さんの淹れてくれたお茶を飲み、用意されていた茶菓子を食べながら、やれやれと足を伸ばした。耳を澄ましても、静かである。車の音も、人の声も聞こえない。防音がいいのか、本当に人里離れた場所だからなのか、おそらくその両方なのだろう。

「なんか、このお茶、変わった味がする。出汁がきいたみたいな後味がする。」

玉露かな。玉露は、出汁っぽい味がするってきいたことがある。」

「へええ。」

そんな感想を言い合ったり、座卓の横に置かれた脇息をお殿様みたいと感心しつつ一服した後、一息ついたところで次は早速、湯に入りに出かけた。目指すは三階にある「立ち湯」である。

 脱衣所で服を脱ぎ、広々とした浴室へ足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、一面の木々の緑である。正面には壁がなく筒抜けで、山の風景がそのまま切り取られて目の前にある。部屋についていた半露天と構造は似ているが、しかし、はるかに大きく雄大で、その開放感は半端なかった。風が吹くたび、さわさわと木々はそよぎ、それが足元に広がる四角な湯船に色濃い碧を映し出している。時刻はそろそろ夕暮れになろうかという頃で、山あいの狭い空が少しづつ色合いを変える様子を湯につかったところでじっくりと見上げると、なんとも言えない愉快に喜ばしい気持ちがお腹の底から湧き上がって、無意識に頬が緩んだ。

 最初、先客が二人居たが、程なく上がっていったので、それから浴室は独り占めだった。四角な浴槽の手前は通常の深さだが、そこを山の風景に向かって進んでゆくと水中に仕切りがあり、そこから先は「立ち湯」の名の通り、立ったまま肩まで湯につかる深さとなる。立ったまま飽きず外を眺め、のぼせてくると湯船の淵に寝転んで、涼みながら空を眺めた。手を伸ばせば届きそうなすぐそこに、山と木々と枝がある。目に入る限りが、沈んだ青と碧である。建物の三階の高さにいるわけだから、裸で空中に寝転んでいるような、ふわりと体が浮いているような不思議な心持になる。夕風の涼しさが肌に心地よく、やがて少し冷えたら、またするりと湯の中すべり込んで手足を伸ばす。それを繰り返した。湯の温度は熱過ぎずぬる過ぎず、透明無臭でかすかなとろみがあり、限りなく湯船の外へと流れ落ちていった。湯の水面(みなも)には、深山の趣きがさながら映し出され、その中に沈んで洗うとも擦るともつかないしぐさで手のひらで繰り返し皮膚を撫でながら、飽かず外を眺めた。

 湯船から出て涼んではつかり、また出て涼んではつかり、そうやって繰り返しているといつまでもそうしていられそうで、また実際繰り返したかったが、さすがにかなりのぼせてきたので立ち去りがたい気持ちで脱衣所に引き上げた。体を拭いてもなかなか汗が引かないので、タオルを巻いて籐椅子で涼んでいると、大柄で肉付きのよい白人の女性が入ってきた。通りすがりざまに目が合ったので、こんにちはと言うと、Hi!と返された。

 部屋に戻ると、連れ合いはもう先に居て、そろそろ夕食の時刻であった。浴衣に着替えて和食の食堂へ向かう頃には、秋の空は急速に暮れて、用意された窓際の席からもう外は見えずに、室内の反射だけが鏡のように光っていた。天井からは白樺を模した灯りが下がっている。冷酒の瓶が、氷を盛り花や紅葉をあしらった鉢に載せて恭しく運ばれ、食事に箸を付けながら周囲を見回すと、一つ置いた卓に先ほどの外国人の女性がその夫らしき連れと共に食事をしていた。室内の奥に設えられた中二階の階段の上では、給仕長が油断なく周囲に目を配りながら、飲み物の用意をしていた。

 酔いの回ったふわふわした足取りで部屋に戻ると、既に布団が敷かれている。長々とその上に体を伸ばすと、枕が二重になっていてそば殻の詰まったような硬いのと、綿のような柔らかいのの二つが重ねてある。

「これ、二つは高すぎるね」

と言い合いながら、枕をずらしたりしているうちに夜は次第に更けてゆく。

 

 前夜早めに休んだせいか、翌日は明け方に目が覚めた。連れ合いは、隣でまだ規則正しい寝息を立てている。

 そっと起き上がって部屋付きの浴室に行くと、ぼんやりと空が白みかけていた。昨夜の夕食の後、この湯船につかりながら、山に挟まれた狭い夜空に星が三つほど見えたのを思い出した。外気がそのまま入り込む半露天は思いのほか冷えて、素早く浴衣を脱いで湯の中に体を沈めると、じんわりとした温かさが体を包んだ。匂い袋は、昨晩のまま水面に浮いてずっしりと濡れている。

 バスローブを着て寝室に戻ると、連れ合いも既に起床していた。

「おにぎり、夜中に一つ食べたけど、まだ一つ残ってるよ」

と言われたので、夜食として用意されていた冷えた味噌おにぎりをもそもそと食べ、たくあんをぽりぽり齧った。連れ合いが夜中に起き出して、一人で夜食を食べていたなんてちっとも気が付かなかった。それにしても、この後、朝食も食べなくてはならないの果たして胃の中に余裕はあるだろうか、とひそかに心配したが、その後、指定された朝食時間のぎりぎりまで布団の上でごろごろ過ごしたのがよかったのか、杞憂であった。

 朝食を摂るのは、四階にある仏蘭西料理の食堂で、早くに出発する宿泊客は、とっくに食事を済ませたのか、ガラス張りのテラス席に就いているのは、自分達を含めて三組だけだ。

 料理が運ばれてくるのを待つ間、ガラス越しに外へ目をやるといくつもの赤蜻蛉が目の前を通り過ぎては、竿のような枝先に留まっていた。

「あそこ、栗がなってる」

と連れ合いが指差す方を眺めると、目の前の高さに緑色のイガに包まれた栗の実がなっている。給仕が運んできた飲み物の説明をした。檸檬ミルク、林檎ジュース、人参ジュース。それらを飲みながら、連れ合いが蜻蛉について説明した。曰く、竿に留まったトンボは、夜中そのまま凍ってしまうことがあること。でも、日が差してくるとその温かさで体は溶け、そのまままた何事もなかったかのように動き始めること。連れ合いの言葉に耳を傾けながら、蜂蜜とバターを塗ったトーストを齧り、オムレツにナイフを入れる。給仕たちはひっそりと背後に佇み、時折卓の周りを巡って、皿を下げたり、銀色のポットで珈琲を注いでまわる。温かい珈琲はほろ苦く芳しく、そして、出発までにはまだまだ時間があり、今日これからの手付かずの一日が、目の前の山の朝の景色と共にあった。