盆提灯

 鹿児島では、初盆の墓に盆提灯を持ってゆく。盆の数日前から仏壇の前には方々の親戚縁者から贈られてきた盆提灯が並べて飾ってあった。盆提灯は色も形もとりどりで、表面には桔梗や菊など様々な草花が描かれていてとても綺麗だった。私はその絵を眺めるのが好きだった。盆提灯は全部で五・六個あったように記憶しているが、そのひとつひとつを子細に検分して、綺麗な順に自分で順番をつけて、それに従って並べたりしてよく遊んだ。

 つまり、それくらい暇だったのだ。

 毎日のように、私は時間を持て余していた。折角の夏休みに、父の実家である九州の田舎に帰省するのは、小学生だった私にとって、あまり楽しいことではなかった。祖母のことは好きだったけれど、そこではすることが何もなかったからだ。

 祖母の家は、単線しかない駅の、そこからまたかなり離れた場所にあった。周囲にあるのは、田んぼと畑、野原やがらんとした人気のない神社、狭い墓地、そして、遡るとどうやら全部が親戚筋にあたるらしい数軒の家々が点在しているだけだった。公園も図書館もなかったし、そもそも遊び相手になるような子供も居なかった。数人居る従兄弟らは、皆鹿児島市内に住んでいて、盆に一泊だけの予定で来ることになっていた。当時、私達家族だけ東京に暮らしていて、帰省の際には一週間前後祖母の家に滞在するのだった。

 自宅から持ってきた数冊の本や雑誌は、隅から隅まで読んでしまったし、父も母も祖母宅では忙しそうで、私に構っている時間はないらしかった。父は伸びすぎた庭木の枝を払って手入れをしたり、二匹の鯉がひっそりと棲む小さな池の水を抜いて掃除をしたりしていた。母は山ほどのらっきょうの皮を剥いては、いくつもの壜に漬けこんだり、その他の細々(こまごま)とした台所仕事、普段祖母だけでは手の回らない部分の家の掃除、仕舞いっ放しの客用の布団をせっせと日に干したりしていた。

 来客はたびたびあった。彼らは、祖母の家を訪れると、まず仏壇に手を合わせ、線香を上げ、それから、母が出す茶菓子でもてなされた。そういう時は、私も大人たちに混じった卓の隅で、一緒に冷たい麦茶を飲み、かるかんという名前の山芋の入った白くてフワフワした皮に餡を包んだものや、若鮎と呼ばれる細長い薄茶色の甘い生地で柔らかい求肥を包んだ菓子を食べたりした。しかし、すぐに退屈になった。大人の話は、ちっとも面白くなかった。よく知らないどこそこの誰れそれがどうしたこうしたといった類(たぐい)の話題は、全くといっていいほど私の興味を引かなかった。

 だから、大抵は途中で茶の間の席を抜け出して、ひとりで仏間へ行って遊んだ。遊ぶといっても、広告の裏に絵を描いたりするくらいしか、やることがない。盆提灯の一人順位付けごっこもそんな時の遊びだった。その日の気分によって順位は微妙に変わることはあっても、基本的にそれ程の変動はなかった。私は軽くて大きな提灯を手にとっては、ひとつひとつ移動させ、気の済むまで丁寧に並べた。

 やがてそのうちそれにも飽きて、私は畳みの上に寝転びぼんやりした。頬杖を突いて、山水の掛け軸や、羽ばたいた姿の鷲の置物、美しい町娘の姿を立体的に貼り付けた羽子板などを眺めた。花瓶には、祖母が生花の代わりに放り込んだスターチスドライフラワーが薄っすらと埃(ほこり)を被っていた。

 鴨居には写真の額がいくつか掛けてあった。白黒の写真で、紋付を着て生真面目な表情を浮かべた老人達だ。いずれも私の曽祖父やら曾祖母やららしかった。そこには、新たに祖父の写真も加わっていた。仏壇の奥にも、位牌と一緒に祖父の小さな写真が安置されていた。そちらはカラー写真の気楽な洋服姿で、祖父は私の記憶にもある日常的な笑みを浮かべている。

 仏間の隣は部屋というには細長すぎ、廊下と呼ぶには幅のありすぎる中途半端な場所があって、無理やりソファとテーブルを並べてあった。その向こう一面がガラス戸で庭の芝生が見えた。夏の強い日差しが白く光っている。日中は、暑くて外に出る気にはなれなかった。朝早くか夕方になってからようやく、庭を歩き回って葉鶏頭の紅い花やピンクの花を咲かせる猿滑りの枝を見上げたりするのだった。時々、裏木戸の前にある鶏小屋の中に入ってみたりもした。小屋は二畳ほどの広さで、人が立って歩けるほどの高さもあったが、雌鳥がたった一羽だけ飼われていた。朝になると卵を産んでいることも時々あった。小ぶりな薄茶色の卵を古びた木製の樋の中に見つけるたび、私は大事に台所へ持ち帰った。

 しかし、すっかり日が高くなって太陽の熱がじりじりと地上を焼くようになると、大人しく家の中の日陰に私は引っ込んだ。昼食の後は、大抵昼寝をした。枕とタオルケットと団扇を仏間に抱えていって畳みの上で眠ることもあったが、大抵は祖母の部屋に行った。

彼女の部屋にはスプリングの効いた大きめなベットが置いてあった。シーツの上には更に青い茣蓙が敷いてあり、横になるとそのさらさらとした感触が、汗ばんだ肌に気持ち良かった。茣蓙の草っぽい匂いに混じって、祖母の箪笥の中から漂ってくるナフタリンと微かな黴臭さが漂う中で私は眠りに就いた。祖母も時々、私と一緒になってベットに横たわり、昼寝をした。

 目を覚ますと、祖母は脱いだ着物を再び纏った。私はベットに寝転んだまま、彼女が着替える様を眺めたものだった。祖母は日常着に着物を着る人だったから、とても手際良くさっさと身に纏った。私にはそれがもの珍しかった。着物というのは、人に着付けてもらうものだと思っていたから。しかし、祖母は特に鏡を見るでもなく、ひとりでするすると簡単に着てしまう。

「上手ねぇ。」

感心して思わず誉めると、祖母は照れ臭そうに顔をくしゃくしゃさせて笑った。

「慣れよ、慣れ。毎日着てれば、慣れるのよ。」

私が鹿児島弁をわからないので、祖母はいつも女学生のような標準語を使っていたが、そこには独特なアクセントが残っていた。

 その話し言葉で、祖母は時々昔話を語ってくれた。祖母の母、すなわち私の曽祖父は、アメリカに密入国して「植木屋さん」をやっていたという。この「植木屋さん」というのは、いわゆるgardenerのことだと思う。戦前の話であるから、ドルのレートはとても良かった。曽祖父の仕送りで祖母達は優雅に暮らし、夏休みには指宿に長逗留、当時祖母が通っていた女学校で腕時計を持っていたのは祖母だけだったという。

 女学校を卒業して、祖母は十七・八歳の頃だと思う。長男である私の父を生んだのは、十九の時だったと言っていたから。祖父は小学校の先生だった。大人数の兄弟の末っ子で、両親が早くに亡くなったため、普通には進学できず、師範学校へ行って教師になった。祖母との年の差が「一まわり」違いというのは、干支の一回りのことで、十二歳差だったのだろう。だから、祖父が七十になるかならないかで亡くなった時、今にして思うと祖母はまだ随分若いうちに未亡人になったわけだ。

 ある日、ベットの上で昼寝から目を覚ますと、隣にもう祖母は居なかった。彼女はベット脇の畳に座わり、手紙を読んでいた。手紙を読みながら、祖母声を立てずに静かに涙を流しているのに気付いて私はぎょっとした。祖母はすぐに私が見ているのに気が付くと、泣き笑いのような笑顔を向けた。

「お手紙を貰ったの。」

と、祖母は説明した。

「おじいちゃんを昔からよく知っている人が、初盆だから手紙をくれたの。」

手紙を封筒に仕舞い、祖母はそれを三面鏡の台に保湿クリームや化粧水の壜と一緒に載せた。

「本当にいい人だった、惜しい人を亡くしたって書いてあったの。」

祖母はそこで言葉を切り、しばらく黙り込んだ。

「その通りなの。本当にいい人だった。結婚してから、いっぺんも怒ったことなかったもの。おばあちゃんはなんでもぽんぽん言うから、いつもああしもた、また言い過ぎた、って後悔したけど、おじいちゃんはそんな時でも言い返さなかったのよ。」

それは確かに私の知る祖父の人物像と合っていた。年に一度帰省するかしないかで、それほど馴染みがあるわけではなかったが。

「一度、おじいちゃんを間違ってお便所に閉じ込めちゃったことがあって。お便所の前を通りかかったら鍵が開いてて、誰も入っていないと思ったから、ひょいと鍵をかけたの。」

祖母の家のお手洗いは、外に小さな針金がわっかを作ってひっかけてあり、それを釘の頭に掛けると外からも閉められる仕掛けになっていた。

「そしたら、おじいちゃんが中に入っていたのよ。随分長く閉じ込めてしまったけど、それでも、怒らなかった。」

祖父は踊るのが好きで、宴会の席ではいつも踊るのに忙しく、出された料理に手をつける暇がなかった。なので、帰宅してから改めて食事をした。祖母は長いこと、宴席では、酒だけが供されて、食事は出ないものだと信じきっていた。単に祖父が食べていなかっただけなのだが。

 私もまだ幼時の頃に、祖父に

「ぽっぽのおうちは、

 四角なおうち、四角なおうちに、

 まあるいお窓、まあるいお窓に、

 お顔をひょいと出して、

 ぽっぽ、おはよー。ポッポ。オハヨー。」

という歌を唄いながら、それに合わせて身振り手振りを仕込まれたのを覚えている。

「そうやってお酒を飲んで帰ってくると、自転車を押しながら、まだ家から随分遠いところから、『おおい、おおい、野村さんのおくさ~ん、帰ってきましたよ~』と大声で言うの。よそに聞こえるからやめて、っておばあちゃんが言っても、いつもそうだったの。」

その夜、昼間祖母から聞いた話を父に話すと、

 「でも、おじいちゃんは先生をしていたから、『日本は勝つ』と教えて大勢の生徒を戦争にやったんだよ。おじいちゃんもそうやって信じてたから。戦争の後、おじいちゃんはそのことをずっと後悔していたんだよ。」

そんなことを私に言った。

 盆の日、祖父が眠る墓地へ、みなで盆提灯を手に手に持って出かけた。墓参りの人々で、墓地は賑わっていた。新盆の墓は、盆提灯で墓石の前を美しく飾られているのですぐそれと知れた。

 私達も祖父の墓の前に盆提灯を置き、実のついた鬼灯や葉鶏頭を花を花入れに挿し、柄杓で汲んだ水で墓石を濡らした。線香を供えて手を合わせていると線香の煙をものともせず、足元に蚊が寄ってくるので、それを追い払うのに忙しかった。私はさかんに足踏みした。

 夕暮れ時、盆提灯に彩られ、墓地は夢のように美しかった。