南国果実


 東京の自宅を予約していたタクシーで出発したのは、その日の夜明け前で、地下鉄もモノレールもまだ動き始めていない時刻だった。空港までの道すがら、空はどんどん白み、西には淡い色の月が朝日を帯びたビルの群れの間にぽっかりと浮かんでいた。一日の活動がまだ始まっていない街を走る車の数はごく僅かで、日中の混雑や渋滞はどこへやら、タクシーはすいすいと気持ちよく通り抜けていった。湾岸道路から眺める静かな東京は、驚くほど洗練され、美しく見えた。
 羽田を朝一番の直行便で飛び立って三時間余り、石垣の空港に降り立った。到着口の正面に熱帯魚を入れた大きな円柱型の水槽があり、その中にカクレクマノミのオレンジ色の縞模様を見つけ出して私の口元は思わず綻んだ。浮き浮きした気分で、ミンサー織や泡盛を売っている土産物屋やソーキソバやチャンプルーを出すフードコートのある区画を通り抜ける。どこもかしこも絵に描いたような南国だ。

 迎えに来た連れ合いのレンタカーに乗り込むために空調の効いた空港から屋外へ一歩踏み出した途端、むっとする熱風のように押し寄せる暑さと目の眩むような太陽光にくらくらした。嘘みたいにむくむくと湧き上がった入道雲と真っ青な空を見上げながら、幸福な気持ちで私は慌ててサングラスをかけた。

 道路沿いにえんえんと続くサトウキビ畑と、家々の生垣のそこここに咲く赤いハイビスカスの花を車窓から眺めていると、島に来た!という実感はいよいよ最高潮に達した。歓びがじわじわとお腹の底から湧いてきて、嬉しさに頬がゆるんだ。ひとりでニヤニヤしていると、

「まず、どこに行く?」

と運転席の連れ合いが尋ねた。ハンドルを握る彼の腕は、既によく日焼けしている。彼は十日ほど前から仕事で島に来ていたが、それももう昨日で終わった。今日からは私も合流し、三泊四日の休暇を過ごすのだ。

米原海岸。」

きっぱりと私は即答した。

「まずは熱帯魚見なきゃ。」

私は抜かりなく、旅行案内書で下調べしてあった。米原海岸は遠浅の海で、砂地にリーフと呼ばれる珊瑚礁が入り混じっている。水着に着替えて浜へ降りるとちょうど引き潮の時刻で、海はどんどんと沖へ遠ざかっていった。潮が引いた後には、大小の水溜りがいくつも残った。そこに、紺青に透き通ったメダカに似た小魚の群れが泳ぎまわっているのを私は目敏く見つけた。目が慣れてくると、黒い熱帯魚や、黒縞の、黄色いのと色々見つかった。魚だけではなかった。ヤドカリや小さなタコ、海鼠(なまこ)といった細々(こまごま)とした生き物も、目が慣れてくるに従い、徐々にわかるようになってきた。

 沖へ沖へと進むと、ゆるやかに水位は上がり、膝の辺りまで海につかるようになる。サンダルを履いた足で踏んでいるのはリーフである。海の深い部分の色は青く、浅い部分は碧がかっているので遠目からもその違いがはっきりとわかる。水面から顔を出した珊瑚礁には、ぶつかった波が白く波頭を立てる。リーフは複雑に入り組みながら、縦横無尽にいくつもの深い亀裂を海の中に造り出す。

水中の珊瑚礁、その先端にわざと立ってみる。一歩踏み出せば、その先には底知れぬ深い深い海がぽっかりと口を開けて待っている。光の届かない海底を見透かそうと目を凝らすだけで、水につかった爪先からふくらはぎにかけてのあたりがムズムズする。怖いもの見たさの気分で、吸い寄せられるように深淵を覗き込まずにはいられない。けれど、決してそこに墜ちたくはない。

 例え十分な紫外線対策をしていても、強烈な直射日光を浴びながら海岸で過ごすのは、意外と体力を消耗する。二時間ぐらい遊んだところで、もう十分堪能したからそろそろ今夜の宿へ向かって移動することにした。

 連れ合いの予約してくれた宿は島の最北端部分にあった。

「出来たばっかりのとこでさ。行ったことはないけど良さそうな感じだったから。」

という連れ合いの言葉通り、そこは素敵な場所だった。まず、海のすぐ近くで庭先から直接、プライベートビーチに出ることが出来、おまけに海岸に沿って小さな湾が次々と連なっていた。部屋は二階の角部屋で、台所が付いており、海を見渡しながら入浴できる豪勢なジャグジーもあるし、広いテラスには白いプラスチック製の椅子が二脚と小さなテーブルも置かれていた。二つ並んだベットの枕元には、緑から黄色、空色から紺色へとグラデーションを織り成したミンサー織りの壁掛けが飾ってあった。それらは、窓の外から見える山々の色と海の色をそっくりそのまま映し出していた。

 風呂を浴びて一服したところで、食料品の買出しに出掛けた。買い物には島の南側まで出なくてはならないが、ドライブ気分でそれもまた楽しい。食料品売り場では、「てんぷら」と呼ばれる練り製品をあれこれ買った。それから果物、パイナップルやマンゴー、ドラゴンフルーツや島バナナにパパイヤ。そして、忘れちゃいけないオリオンビール。そして、地ビール。

 宿に戻った時、日は既に傾きかけていた。買ってきた食料品を部屋に置くのもそこそこに、我々はカメラと双眼鏡と三脚を担いで急いで建物の屋上へ上がった。宿の建物は長方形型の二階建てだったが、広々とした屋上に上がれるようになっていた。真正面は海、背後は山である。海には、ちょうど太陽が沈んでいこうとしていた。銀色に光る波の上に、茜色に燃える日没が一筋の輝く道を、出現させていた。

「ちょうど間に合ったね。」

「うん、いい感じ。」

残照の色濃い空には、もう一番星も既に光を放っていた。

「あれって、木星?」

「だね。あと、その下にアークトゥールスがある。」

「えっ、どこ?」

「ほら、あそこの・・・。」

と指差された先に、確かに星が瞬いている。

「あれ、アークトゥールスなんだ。高っか。」

「ここまで来ると、だいぶ緯度が低いから。」

南の島では、星空の様子も少し違う。やがて、星が出揃ってくる。

「なんか北極星も低い。」

 屋上には寝椅子も並べて置かれていて、観望にはもってこいだった。他の泊り客も、入れ替わり立ち代わり、屋上へ登って来ては、星を眺めた。雲は絶え間なくは途切れ途切れに流れてきたが、夜空のどこかしらには星が覗いていた。周囲に人家はないから邪魔になる明かりもない。たまに通りかかる車のライトが眩しく感じられることはあっても、車は滅多に通らない。

 ただ一つ惜しむらくは、今は月の出が早いことだった。程なくして、ぽっかりと月が東側の山の稜線から顔を出した。黄色味を帯びた大きな月で、やがて山の端から全貌が現れると、少しだけ欠けているのがわかる。今朝、あの月がもっと淡い色で明け方の西の空に居るのを空港へと走るタクシーの中から見た時は、まだ自分は東京に居たんだ、と私は考えた。それが、今こうして同じ月が東の空から上がるのを南の島で眺めている。たった一日で、すごい変化だ。

 月の光が強くなりすぎて、星を眺めるのには適さなくなったので、私達は部屋に帰った。そして、買い込んできた食料品とアルコールを並べてささやかな宴を催した。

 機嫌よく眠りに就く前に、私達は注意深く目覚ましをセットした。

「起きられるかな?」

「起きないと。」

「もし、私が寝てたら絶対、起こして。」

 翌朝、まだ暗いうちに私達は起き出した。そして、懐中電灯を片手に外へ出た。宿から少し歩いてゆくと、道の両側の少し低くなったところに潅木の列がぼんやりとした影のように行く手に現れた。

「あそこ。あれ、あれ。」

と連れ合いが懐中電灯で差した光の輪の中に、ほんのりと紅色を帯びた白い花々が、いくつも枝から垂れ下がっていた。大きな房をなす花々は夢のように幽玄で、濃い闇を背景に幻のように浮かび上がっていた。時々、ぽとり、ぽとりと地面に花が落ちる気配がした。

「一晩だけ咲いて、夜が明けると散るんだ。」

私は落ちたばかりの花を拾い上げ、そっと手のひらに載せてみた。私の手の半分程の大きさがあった。落ちても花びらは崩れず、そのまま花の形を保っている。ふと背後で何かが鳴いた。キョロロロロ~という密(ひそ)やかな声だ。

「あれは、アカショウビン。」

 宿に戻ると、倒れこむようにベットに入り、二度寝した。次に目が覚めた時、部屋の中はすっかり明るくなっていた。コーヒーの香りが満ちている。隣のベットは空で、連れ合いはせっせと朝食の支度をしていた。台所にはエスプレッソマシーンがあったので、それを使ったらしい。

「今朝は、果物食なんだ。」

と並べられたテーブルの上には、鮮やかなドラゴンフルーツの赤紫があり、半分に割ったパッションフルーツもあった。パパイヤもパイナップルもバナナも。しかし、何より見事だったのはマンゴーで、まずは三枚におろして種の部分を取り除いた後、皮を傷つけないよう注意深く果肉に賽の目状にナイフで切れ目をいれてあった。それらを皮の側から軽く押し出してやると、果肉はいくつもの小さな菱形に芸術的な美しさで開いた。

「すごい。」

と私は本気で感心して呟いた。

「完璧な朝ごはんだね。」

朝食の後片付けは、その日の予定を相談しながら二人でした。

「まず平久保崎の灯台に行こう。」

「夜は、天文台。」

「うん。ただ、天気がどうかなぁ。」

果物を丸ごと切ると皮だの芯だの切れ端が大量発生するが、それらはまとめてあとで捨てられるように、ビニール袋の中にひとまとめにした。そこからはなんともいえない芳香が、いつまでも漂ってきて、私達に「世界一良い匂いのする生ゴミ」と呼ばれた。