祖母と羽織

 祖母を訪ねる時、私はしばしば着物を着て行く。私の着物姿を彼女が喜ぶからだ。祖母は着物好きだった。年を取ってだんだんと帯を結ぶのが億劫になってきたらしく、自分が着ることはめったになくなったが、孫娘がネットオークションで落札した古風なアンティーク着物を纏っている現れると目を細めた。私が戦前に流行した銘仙などを着て現れると、

「懐かしいわぁ。」

としきりに繰り返した。私は背が低くて、ちょうど昔の着物を着るにはぴったりの体型だった。着丈が短くておはしょりが取れなくなるようなこともなく、袖がつんつるてんになったりもしなかった。

 ネットオークションでは、運さえ良ければ古着が随分と安値で買えた。無論、多少の擦れや汚れ、染みなどがある場合も少なからずあったが、それらの欠点に関しては、喜んで私は目をつぶった。それに場合によっては、仕付け糸がついたままの着物に出会うこともあった。その着物のかつての持ち主は、どういうわけか自分の衣装をたんすの奥にしまいこんだまま、ついに袖を通すことがなかったのである。もったいない話だ。

 十月のよく晴れた日曜日、私は新しく手に入れた黒い総絞りの羽織を着て、祖母宅の門を叩いた。お土産にヨックモックのクッキーの缶と白百合の花を持って。

 白百合もまた、祖母が好む花だった。私はいつものように花を仏壇に飾り、祖父に向かって手を合わせた。それから、茶の間の祖母の所へ行った。祖母は、紅茶を淹れてくれている最中だった。私が羽織を脱ぐと、

「これに掛けて置くから。」

と祖母が衣文掛を片手にやってきた。そして、私から受け取った羽織を衣文掛にかけると鴨居に吊るし、じっと羽織を眺めた。

「素敵だわ。」

「でしょう?」

私はいささか得意になった。

「掘り出し物だったの。いくらしたと思う?」

「さあ・・・。」

「五千円。なかなかお買い得でしょ?」

祖母は、幾分か驚いた様子だった。

「そうなの。昔は、なかなか高価なものだったけど。」

彼女は、一旦、言葉を切り、そっと羽織の艶やかな絹地を撫でた。

「昔、私の若い頃、総絞りの長羽織が流行った事があって。」

と話し始めた。

「私も欲しかったんだけど、父が買ってくれなくて。お金がないんじゃないのよ。お金があるのに買ってくれなかったの。吝嗇(けち)だったから。」

祖母は、結構、口が悪く辛辣な人で、肉親である父親に対しても容赦がない。

「仕方ないから自分で買ったの。本当は紫の総絞りが欲しかったんだけど、緑のが安かったから緑の総絞りの反物を。」

祖母の父、つまり私の曽祖父は、貿易商であった。カナダを中心に取引をしていて、長く海外で生活していた。祖母もバンクーバーで生まれた。しかし、祖母が二歳の時、祖母の母、つまり私の曾祖母が結核にかかり、母子は帰国して鹿児島にある曾祖母の実家で療養生活に入った。しかし、間もなく曾祖母は亡くなった。彼女の最後の願いは、一人娘を

「幼稚園に入れてやって欲しい」

だったという。

「あの頃は、幼稚園に行く子なんて珍しくて、私の他にはお寺の男の子だけだったわ。」

そのお寺の男の子と手を繋ぎ幼稚園から帰る道すがら、祖母は、

「東京へ行ってごらん。豚が眼鏡をかけて新聞を読んでます」

と大きな声で唄いながら歩いたという。

「つまり、それくらい東京っていうのはすごい所だと思っていたわけ、当時は。」

曾祖母の死後、祖母は母の実家から、父方の伯父の家へと引き取られた。祖母は一人娘であったし、当時は、母親の死により母方の実家とは縁が切れたものとみなされ、父方の親戚の庇護に置かれることを余儀なくされたのだ。父親本人は、相変わらず日本とカナダを往復する生活で、娘の面倒をみるわけにはいかなかったらしい。

 祖母が引き取られた伯父の家は、材木商であった。商家であったから、毎日使用人やら何やら大勢の人が出入りしていたという。そこでの生活は、祖母にとってなかなか楽しいものであったらしい。年上の二人姉妹の従姉達が居て、よく祖母の面倒を見てくれた。特に上の従姉は優しくて裁縫が上手で、いつも祖母の女学校の縫い物の宿題を引き受けてくれた。しかし、やはり結核で若くして亡くなった。祖母自身も、あまり丈夫ではなかった。何度か大病をし、その後遺症で片方の耳がほとんど聞こえなくなった。周囲は彼女が余り長生きできないだろう、と考えていた。

「だから、自分でも意外だわ。この年まで生きるなんて。」

と祖母は真顔で言う。

女学校を出た後、祖母は地元の百貨店である山形屋の化粧品売り場に勤めた。化粧品についての知識を教えるために、東京から「マネキンさん」と呼ばれる若い女性達がわざわざやってきて祖母達若い売り子に化粧の仕方を伝授したりしたという。なかなか華やかな職場であったようだ。

「でも、朝は支度が大変で大忙しだったわ。勤めには着物で出てたから、帯は結ばなくちゃならないし、バタバタして。」

祖母が祖父と付き合っていたのは、この頃かららしかった。祖父は奄美大島の出で、鹿児島の旧制高校から東大へ進んだ。祖母は、東京の祖父の所へ遊びに行ったこともあるらしい。

「おじいさんは数学が専門だったから、家庭教師で随分お金をもうけていたの。だから、東京に行った時もご馳走してくれて。」

祖父が祖母を連れて行ったのは、銀座の資生堂パーラーであった。食事中もボーイさんがずっと背後に控えているので、祖母ははなはだ落ち着かなかった。食後、お手洗いに行くと、なんと水洗だった。水洗式のトイレを見たのは初めてのことで、祖母は勝手がわからず結局用を足さずに出てしまった。

 父親がカナダから帰国する時は、横浜の港まで出迎えに行ったりもした。土産は干し葡萄やチョコレートだった。そういった品々が、当時は珍しがられた。

 総じてこの時代の祖母は、暢気に楽しく暮らしていたようだった。しかし、父親の再婚を境にそれは急変する。

再婚後、祖母の父は日本へ完全に帰国し、故郷である田舎に新妻と暮らし始めた。祖母は相変わらず鹿児島の伯父の元で気楽に日々を送っていた。

「そしたらね、投げ文をした人が居たのよ。」

「ナゲブミ?」

「そう。父のところへね、自分だけ若い後妻と暮らして、娘は他所にほったらかして怪しからん、みたいなことを書いたのが投げ込まれてね。」

その投げ文がきっかけとなって、祖母は父親の元へ連れ戻されることとなった。勤めはやめさせられるし、仲の良かった下の従姉とも会えなくなるし、何よりも新しい継母との生活は気詰まりだしで、祖母にとっては迷惑この上なかった。

 ちょうど恋人の祖父は卒業間近であり、若い二人は結婚を考え始めた。しかし、ここでも障害が持ち上がった。一人娘の祖母は、戸籍を抜けるわけにはいかず、結婚にあたっては養子を摂る必要があった。祖父は長男ではなかったが、学士様に息子をなぜ養子になどやらねばならんのだ、と祖父の実家は猛反対であった。

 結局、秋田で祖父の教職の口が決まると、卒業と同時に二人は駆け落ちした。なかなか大胆な展開である。

「秋田に行って、初めて炬燵を見たのよ。ほら、鹿児島は冬でもせいぜい火鉢くらいで越せるから。少女雑誌に炬燵の挿絵が付いてるのを見て、どんなものだろうと憧れていたんだけど・・・。」

秋田で最初の息子が生まれると、その子を祖母の実家に養子としていれて跡継ぎにすることで、ようやく祖父母は入籍することが出来た。

「その後、大阪に移って、あなたのお母さんが生まれて。でも、戦争がひどくなって、おじいさんは兵隊にとられてしまったから、疎開するために私達は鹿児島に戻ったの。」

実家では、あまり歓迎されなかった。食糧事情も悪かった。ある日、祖母が二人の子供を家に残して用事に出かけたところ留守番していた妹(私の母である)がお腹が空いたと訴えた。困った兄は家中を探して梅干を見つけ出し、それを舐めさせて妹を宥めた。帰宅した祖母は、その話を息子から聞かされて、悲しくて泣いたという。

 幸い祖父は、大陸に送られるはずだったところを、「彼は、のちのち日本の学問のためになる人材だから」という恩師の口添えがあって、馬の世話係に任命され、終戦まで国内に残ることが出来た。そして、戦後、一家で東京に出て今に至る。そこから先の出来事は、既に私の知識の範疇である。

 改めて仏壇に飾られた祖父の写真を思い浮かべた。祖父母が駆け落ちしたなんて、それまで全然知らなかった。無論、二人にも若い頃があった筈で、恋愛だのなんだの、それにまつわる諸々(もろもろ)があっても不思議ではない。しかし、どうにもそれらが、目の前の背中の丸くなった老女である祖母とうまく結びつかなかった。祖母は思いに(ふけ)耽るように、再び鴨居にかかった羽織を眺めている。私は茶碗に残っていた紅茶を、飲み干し、台所で湯を沸かそうと立ち上がった。