盆提灯

 鹿児島では、初盆の墓に盆提灯を持ってゆく。盆の数日前から仏壇の前には方々の親戚縁者から贈られてきた盆提灯が並べて飾ってあった。盆提灯は色も形もとりどりで、表面には桔梗や菊など様々な草花が描かれていてとても綺麗だった。私はその絵を眺めるのが好きだった。盆提灯は全部で五・六個あったように記憶しているが、そのひとつひとつを子細に検分して、綺麗な順に自分で順番をつけて、それに従って並べたりしてよく遊んだ。

 つまり、それくらい暇だったのだ。

 毎日のように、私は時間を持て余していた。折角の夏休みに、父の実家である九州の田舎に帰省するのは、小学生だった私にとって、あまり楽しいことではなかった。祖母のことは好きだったけれど、そこではすることが何もなかったからだ。

 祖母の家は、単線しかない駅の、そこからまたかなり離れた場所にあった。周囲にあるのは、田んぼと畑、野原やがらんとした人気のない神社、狭い墓地、そして、遡るとどうやら全部が親戚筋にあたるらしい数軒の家々が点在しているだけだった。公園も図書館もなかったし、そもそも遊び相手になるような子供も居なかった。数人居る従兄弟らは、皆鹿児島市内に住んでいて、盆に一泊だけの予定で来ることになっていた。当時、私達家族だけ東京に暮らしていて、帰省の際には一週間前後祖母の家に滞在するのだった。

 自宅から持ってきた数冊の本や雑誌は、隅から隅まで読んでしまったし、父も母も祖母宅では忙しそうで、私に構っている時間はないらしかった。父は伸びすぎた庭木の枝を払って手入れをしたり、二匹の鯉がひっそりと棲む小さな池の水を抜いて掃除をしたりしていた。母は山ほどのらっきょうの皮を剥いては、いくつもの壜に漬けこんだり、その他の細々(こまごま)とした台所仕事、普段祖母だけでは手の回らない部分の家の掃除、仕舞いっ放しの客用の布団をせっせと日に干したりしていた。

 来客はたびたびあった。彼らは、祖母の家を訪れると、まず仏壇に手を合わせ、線香を上げ、それから、母が出す茶菓子でもてなされた。そういう時は、私も大人たちに混じった卓の隅で、一緒に冷たい麦茶を飲み、かるかんという名前の山芋の入った白くてフワフワした皮に餡を包んだものや、若鮎と呼ばれる細長い薄茶色の甘い生地で柔らかい求肥を包んだ菓子を食べたりした。しかし、すぐに退屈になった。大人の話は、ちっとも面白くなかった。よく知らないどこそこの誰れそれがどうしたこうしたといった類(たぐい)の話題は、全くといっていいほど私の興味を引かなかった。

 だから、大抵は途中で茶の間の席を抜け出して、ひとりで仏間へ行って遊んだ。遊ぶといっても、広告の裏に絵を描いたりするくらいしか、やることがない。盆提灯の一人順位付けごっこもそんな時の遊びだった。その日の気分によって順位は微妙に変わることはあっても、基本的にそれ程の変動はなかった。私は軽くて大きな提灯を手にとっては、ひとつひとつ移動させ、気の済むまで丁寧に並べた。

 やがてそのうちそれにも飽きて、私は畳みの上に寝転びぼんやりした。頬杖を突いて、山水の掛け軸や、羽ばたいた姿の鷲の置物、美しい町娘の姿を立体的に貼り付けた羽子板などを眺めた。花瓶には、祖母が生花の代わりに放り込んだスターチスドライフラワーが薄っすらと埃(ほこり)を被っていた。

 鴨居には写真の額がいくつか掛けてあった。白黒の写真で、紋付を着て生真面目な表情を浮かべた老人達だ。いずれも私の曽祖父やら曾祖母やららしかった。そこには、新たに祖父の写真も加わっていた。仏壇の奥にも、位牌と一緒に祖父の小さな写真が安置されていた。そちらはカラー写真の気楽な洋服姿で、祖父は私の記憶にもある日常的な笑みを浮かべている。

 仏間の隣は部屋というには細長すぎ、廊下と呼ぶには幅のありすぎる中途半端な場所があって、無理やりソファとテーブルを並べてあった。その向こう一面がガラス戸で庭の芝生が見えた。夏の強い日差しが白く光っている。日中は、暑くて外に出る気にはなれなかった。朝早くか夕方になってからようやく、庭を歩き回って葉鶏頭の紅い花やピンクの花を咲かせる猿滑りの枝を見上げたりするのだった。時々、裏木戸の前にある鶏小屋の中に入ってみたりもした。小屋は二畳ほどの広さで、人が立って歩けるほどの高さもあったが、雌鳥がたった一羽だけ飼われていた。朝になると卵を産んでいることも時々あった。小ぶりな薄茶色の卵を古びた木製の樋の中に見つけるたび、私は大事に台所へ持ち帰った。

 しかし、すっかり日が高くなって太陽の熱がじりじりと地上を焼くようになると、大人しく家の中の日陰に私は引っ込んだ。昼食の後は、大抵昼寝をした。枕とタオルケットと団扇を仏間に抱えていって畳みの上で眠ることもあったが、大抵は祖母の部屋に行った。

彼女の部屋にはスプリングの効いた大きめなベットが置いてあった。シーツの上には更に青い茣蓙が敷いてあり、横になるとそのさらさらとした感触が、汗ばんだ肌に気持ち良かった。茣蓙の草っぽい匂いに混じって、祖母の箪笥の中から漂ってくるナフタリンと微かな黴臭さが漂う中で私は眠りに就いた。祖母も時々、私と一緒になってベットに横たわり、昼寝をした。

 目を覚ますと、祖母は脱いだ着物を再び纏った。私はベットに寝転んだまま、彼女が着替える様を眺めたものだった。祖母は日常着に着物を着る人だったから、とても手際良くさっさと身に纏った。私にはそれがもの珍しかった。着物というのは、人に着付けてもらうものだと思っていたから。しかし、祖母は特に鏡を見るでもなく、ひとりでするすると簡単に着てしまう。

「上手ねぇ。」

感心して思わず誉めると、祖母は照れ臭そうに顔をくしゃくしゃさせて笑った。

「慣れよ、慣れ。毎日着てれば、慣れるのよ。」

私が鹿児島弁をわからないので、祖母はいつも女学生のような標準語を使っていたが、そこには独特なアクセントが残っていた。

 その話し言葉で、祖母は時々昔話を語ってくれた。祖母の母、すなわち私の曽祖父は、アメリカに密入国して「植木屋さん」をやっていたという。この「植木屋さん」というのは、いわゆるgardenerのことだと思う。戦前の話であるから、ドルのレートはとても良かった。曽祖父の仕送りで祖母達は優雅に暮らし、夏休みには指宿に長逗留、当時祖母が通っていた女学校で腕時計を持っていたのは祖母だけだったという。

 女学校を卒業して、祖母は十七・八歳の頃だと思う。長男である私の父を生んだのは、十九の時だったと言っていたから。祖父は小学校の先生だった。大人数の兄弟の末っ子で、両親が早くに亡くなったため、普通には進学できず、師範学校へ行って教師になった。祖母との年の差が「一まわり」違いというのは、干支の一回りのことで、十二歳差だったのだろう。だから、祖父が七十になるかならないかで亡くなった時、今にして思うと祖母はまだ随分若いうちに未亡人になったわけだ。

 ある日、ベットの上で昼寝から目を覚ますと、隣にもう祖母は居なかった。彼女はベット脇の畳に座わり、手紙を読んでいた。手紙を読みながら、祖母声を立てずに静かに涙を流しているのに気付いて私はぎょっとした。祖母はすぐに私が見ているのに気が付くと、泣き笑いのような笑顔を向けた。

「お手紙を貰ったの。」

と、祖母は説明した。

「おじいちゃんを昔からよく知っている人が、初盆だから手紙をくれたの。」

手紙を封筒に仕舞い、祖母はそれを三面鏡の台に保湿クリームや化粧水の壜と一緒に載せた。

「本当にいい人だった、惜しい人を亡くしたって書いてあったの。」

祖母はそこで言葉を切り、しばらく黙り込んだ。

「その通りなの。本当にいい人だった。結婚してから、いっぺんも怒ったことなかったもの。おばあちゃんはなんでもぽんぽん言うから、いつもああしもた、また言い過ぎた、って後悔したけど、おじいちゃんはそんな時でも言い返さなかったのよ。」

それは確かに私の知る祖父の人物像と合っていた。年に一度帰省するかしないかで、それほど馴染みがあるわけではなかったが。

「一度、おじいちゃんを間違ってお便所に閉じ込めちゃったことがあって。お便所の前を通りかかったら鍵が開いてて、誰も入っていないと思ったから、ひょいと鍵をかけたの。」

祖母の家のお手洗いは、外に小さな針金がわっかを作ってひっかけてあり、それを釘の頭に掛けると外からも閉められる仕掛けになっていた。

「そしたら、おじいちゃんが中に入っていたのよ。随分長く閉じ込めてしまったけど、それでも、怒らなかった。」

祖父は踊るのが好きで、宴会の席ではいつも踊るのに忙しく、出された料理に手をつける暇がなかった。なので、帰宅してから改めて食事をした。祖母は長いこと、宴席では、酒だけが供されて、食事は出ないものだと信じきっていた。単に祖父が食べていなかっただけなのだが。

 私もまだ幼時の頃に、祖父に

「ぽっぽのおうちは、

 四角なおうち、四角なおうちに、

 まあるいお窓、まあるいお窓に、

 お顔をひょいと出して、

 ぽっぽ、おはよー。ポッポ。オハヨー。」

という歌を唄いながら、それに合わせて身振り手振りを仕込まれたのを覚えている。

「そうやってお酒を飲んで帰ってくると、自転車を押しながら、まだ家から随分遠いところから、『おおい、おおい、野村さんのおくさ~ん、帰ってきましたよ~』と大声で言うの。よそに聞こえるからやめて、っておばあちゃんが言っても、いつもそうだったの。」

その夜、昼間祖母から聞いた話を父に話すと、

 「でも、おじいちゃんは先生をしていたから、『日本は勝つ』と教えて大勢の生徒を戦争にやったんだよ。おじいちゃんもそうやって信じてたから。戦争の後、おじいちゃんはそのことをずっと後悔していたんだよ。」

そんなことを私に言った。

 盆の日、祖父が眠る墓地へ、みなで盆提灯を手に手に持って出かけた。墓参りの人々で、墓地は賑わっていた。新盆の墓は、盆提灯で墓石の前を美しく飾られているのですぐそれと知れた。

 私達も祖父の墓の前に盆提灯を置き、実のついた鬼灯や葉鶏頭を花を花入れに挿し、柄杓で汲んだ水で墓石を濡らした。線香を供えて手を合わせていると線香の煙をものともせず、足元に蚊が寄ってくるので、それを追い払うのに忙しかった。私はさかんに足踏みした。

 夕暮れ時、盆提灯に彩られ、墓地は夢のように美しかった。

 

 

 

ちょっと様子を

 亡き人達は盆になると戻ってくるといわれているわけだが、その他の日にも還ってきたいと思うことはちょくちょくあるのではないだろうか。気になるからちょっと様子を見てきたいと思うことはあるだろうし、実際にそういう場合はふらりとこの世に還って来ているのではないか、というのが私のもっぱらの見解である。

 私の二人の祖父、すなわち父方の祖父は私が中学の時で、母方の祖父は大学の時に亡くなった。彼らが亡くなった当時も、当然、私はそれなりに彼らの死を哀悼したものだったが、それから年後、最初の子供を生んだ後、彼らの死を一層惜しく感じるようになった。私自身、彼ら双方にとっての初孫であり、随分と可愛がられた記憶がある。だから、もし初曾孫に会えたなら、どんなにか喜んだことだろう。我が子を膝に乗せながら、しばしば私はそんなことを考えずにはいられなかった。

 子供は、元気の良い男の子だった。丸々とした頬に、ふわふわの髪、笑うと糸の様に細くなる目。小さな手足をぱたぱたとよく動かし、両脇を抱いて支えてやると、懸命に踏ん張って立とうとする。ヨダレでいつも濡れている唇の間からは、白い米粒のような乳歯の前歯が二本のぞいている。こんな赤ん坊が身近に居たら、誰だって嬉しい気持ちになるに決まってる、と親馬鹿丸出しで私は思ったものだった。ましてや、それが曾孫だったら・・・。それは、二人の祖母達の曾孫に対する夢中になりっぷりを目の当たりにするにつけても容易に想像できた。本当に二人とも、もっと長生きしてくれていたらよかったのに。

 ある日のことである。私は赤ん坊の息子をあやしながら、駅のプラットフォームに置かれたベンチに座り、列車が来るのを待っていた。気持ちの良い秋晴れの日だった。隣には一人のおじいさんが座っていた。息子を見ると、ニコニコしてうんうんと頷きながら、何度もいい子だ、いい子だと誉めた。

 赤ん坊を連れて歩いていると、こういうことはよくあった。特に年を取った人達は、子供が好きなことが多かった。おばあさんたちは、くちぐちに赤ん坊を誉めそやし、赤ん坊の手を握り、ちょんちょんと頬を指でつつき、性別を尋ね、月齢を尋ねた。おじいさんたちは、もう少し控えめな態度であることが多かった。だから、ベンチで出会ったおじいさんも、そうした子供好きの一人なのだろうくらいに私は気楽に考えていた。

 しかし、列車が来ると彼は立ち上がり、私に向かって一礼すると、

「どうぞ、大事に育てて下さい。」

と最後に一言そう告げて、去っていった。

 不意を突かれた気持ちで、私は赤ん坊を抱いて列車に乗り込んだ。列車に揺られながら、私は考え込んだ。それは他人からの言葉とは思えなかった。他人から「お願い」されるには、なんだか変な内容だった。むしろ肉親からの「お願い」だった。では、一体、誰がこの子を「大事に育ててくれ」と私に頼むだろう? 

 あれは、祖父に違いない。

 息子は私の腕の中で、車窓から過ぎ去る景色を機嫌よく眺めている。その幼い顔をつくづく見やりながら、私はまあそういうこともあるかもしれないな、とかなり納得できる気分だった。祖父達だって、そりゃあこの子に会いたいに決まっている。だから、会いにきたのだ。自分の目で確かめに来たのだ。通りすがりの誰かの姿をちょっと借りて。私は割りと本気でそう思い、もうそういうことにすっかり決めてしまった。私もずっと祖父にこの子を見て欲しかったし、ちょうどよかった。

 残る問題は、それがどっちの祖父だったかということだが、ひょっとすると両方一緒にだったかもしれない。二人は知り合いだったから、そういうことも可能性としては大いにありそうだった。

 それからまた十数年が過ぎた。赤ん坊だった息子は、どんどん大きくなり、高校を卒業した。息子の卒業式に、私は着物を着た。臙脂色の付け下げに黒羽織、髪には似たような臙脂色のリボンで作った花を挿した。以前、チョコレートの箱にかかっていたリボンが綺麗だったのでとっておいたのを、ちょうど良い機会だからと髪飾りにしたのである。帯締めには、母方の祖母の形見の葡萄の形の真珠のブローチを留めた。

 式が終わると息子は友人たちを遊びに行くというので校門のところで写真を撮ってから別れた。そのまま駅に向かって私はだらだらとした坂道をゆっくりと下った。草履で坂道を下るのは結構骨であった。前へ前へと滑り落ちるので、指が鼻緒に食い込むのだ。

 そんな風に歩いていると、

「素敵ですね。上手に着て。」

風呂敷を手に提げた小柄な老女に声を掛けられた。

「あ、どうも。」

もごもごと私は口の中で呟いた。

「髪飾りともよく合って。」

それだけ言って、老女は前にある風呂屋の建物へ入って行った。

私はその後姿を見送って、数歩歩き出したところで、ふと帯締めからブローチが消えているのに気付いた。どこかで落としたのだろう、と冷静に思うのと同時に、ああ、あれは祖母だったのだ、と私はなんとはなしに悟った。

 祖母は九年前に亡くなったが、着物好きな人だった。私の着姿を見て、一言誉めたくなったのだろう。着物の色と髪飾りの色の取り合わせに目を留めるところなど、いかにもあの人らしかった。葡萄の形の真珠のブローチは、あの世とこの世の通行料として支払われるために消えたのだろうと私は推測した。あれはお気に入りのブローチだったから、少々惜しかったがおばあちゃんのためならまあ仕方がない。そもそも祖母の持ち物だったわけだし。

 そんなわけで、あの世とこの世仕切りりは、存外、薄いと私は感じているのである。死者は私達の思い出と共に在り、私達は死者の愛情と共に生きている。

南国果実


 東京の自宅を予約していたタクシーで出発したのは、その日の夜明け前で、地下鉄もモノレールもまだ動き始めていない時刻だった。空港までの道すがら、空はどんどん白み、西には淡い色の月が朝日を帯びたビルの群れの間にぽっかりと浮かんでいた。一日の活動がまだ始まっていない街を走る車の数はごく僅かで、日中の混雑や渋滞はどこへやら、タクシーはすいすいと気持ちよく通り抜けていった。湾岸道路から眺める静かな東京は、驚くほど洗練され、美しく見えた。
 羽田を朝一番の直行便で飛び立って三時間余り、石垣の空港に降り立った。到着口の正面に熱帯魚を入れた大きな円柱型の水槽があり、その中にカクレクマノミのオレンジ色の縞模様を見つけ出して私の口元は思わず綻んだ。浮き浮きした気分で、ミンサー織や泡盛を売っている土産物屋やソーキソバやチャンプルーを出すフードコートのある区画を通り抜ける。どこもかしこも絵に描いたような南国だ。

 迎えに来た連れ合いのレンタカーに乗り込むために空調の効いた空港から屋外へ一歩踏み出した途端、むっとする熱風のように押し寄せる暑さと目の眩むような太陽光にくらくらした。嘘みたいにむくむくと湧き上がった入道雲と真っ青な空を見上げながら、幸福な気持ちで私は慌ててサングラスをかけた。

 道路沿いにえんえんと続くサトウキビ畑と、家々の生垣のそこここに咲く赤いハイビスカスの花を車窓から眺めていると、島に来た!という実感はいよいよ最高潮に達した。歓びがじわじわとお腹の底から湧いてきて、嬉しさに頬がゆるんだ。ひとりでニヤニヤしていると、

「まず、どこに行く?」

と運転席の連れ合いが尋ねた。ハンドルを握る彼の腕は、既によく日焼けしている。彼は十日ほど前から仕事で島に来ていたが、それももう昨日で終わった。今日からは私も合流し、三泊四日の休暇を過ごすのだ。

米原海岸。」

きっぱりと私は即答した。

「まずは熱帯魚見なきゃ。」

私は抜かりなく、旅行案内書で下調べしてあった。米原海岸は遠浅の海で、砂地にリーフと呼ばれる珊瑚礁が入り混じっている。水着に着替えて浜へ降りるとちょうど引き潮の時刻で、海はどんどんと沖へ遠ざかっていった。潮が引いた後には、大小の水溜りがいくつも残った。そこに、紺青に透き通ったメダカに似た小魚の群れが泳ぎまわっているのを私は目敏く見つけた。目が慣れてくると、黒い熱帯魚や、黒縞の、黄色いのと色々見つかった。魚だけではなかった。ヤドカリや小さなタコ、海鼠(なまこ)といった細々(こまごま)とした生き物も、目が慣れてくるに従い、徐々にわかるようになってきた。

 沖へ沖へと進むと、ゆるやかに水位は上がり、膝の辺りまで海につかるようになる。サンダルを履いた足で踏んでいるのはリーフである。海の深い部分の色は青く、浅い部分は碧がかっているので遠目からもその違いがはっきりとわかる。水面から顔を出した珊瑚礁には、ぶつかった波が白く波頭を立てる。リーフは複雑に入り組みながら、縦横無尽にいくつもの深い亀裂を海の中に造り出す。

水中の珊瑚礁、その先端にわざと立ってみる。一歩踏み出せば、その先には底知れぬ深い深い海がぽっかりと口を開けて待っている。光の届かない海底を見透かそうと目を凝らすだけで、水につかった爪先からふくらはぎにかけてのあたりがムズムズする。怖いもの見たさの気分で、吸い寄せられるように深淵を覗き込まずにはいられない。けれど、決してそこに墜ちたくはない。

 例え十分な紫外線対策をしていても、強烈な直射日光を浴びながら海岸で過ごすのは、意外と体力を消耗する。二時間ぐらい遊んだところで、もう十分堪能したからそろそろ今夜の宿へ向かって移動することにした。

 連れ合いの予約してくれた宿は島の最北端部分にあった。

「出来たばっかりのとこでさ。行ったことはないけど良さそうな感じだったから。」

という連れ合いの言葉通り、そこは素敵な場所だった。まず、海のすぐ近くで庭先から直接、プライベートビーチに出ることが出来、おまけに海岸に沿って小さな湾が次々と連なっていた。部屋は二階の角部屋で、台所が付いており、海を見渡しながら入浴できる豪勢なジャグジーもあるし、広いテラスには白いプラスチック製の椅子が二脚と小さなテーブルも置かれていた。二つ並んだベットの枕元には、緑から黄色、空色から紺色へとグラデーションを織り成したミンサー織りの壁掛けが飾ってあった。それらは、窓の外から見える山々の色と海の色をそっくりそのまま映し出していた。

 風呂を浴びて一服したところで、食料品の買出しに出掛けた。買い物には島の南側まで出なくてはならないが、ドライブ気分でそれもまた楽しい。食料品売り場では、「てんぷら」と呼ばれる練り製品をあれこれ買った。それから果物、パイナップルやマンゴー、ドラゴンフルーツや島バナナにパパイヤ。そして、忘れちゃいけないオリオンビール。そして、地ビール。

 宿に戻った時、日は既に傾きかけていた。買ってきた食料品を部屋に置くのもそこそこに、我々はカメラと双眼鏡と三脚を担いで急いで建物の屋上へ上がった。宿の建物は長方形型の二階建てだったが、広々とした屋上に上がれるようになっていた。真正面は海、背後は山である。海には、ちょうど太陽が沈んでいこうとしていた。銀色に光る波の上に、茜色に燃える日没が一筋の輝く道を、出現させていた。

「ちょうど間に合ったね。」

「うん、いい感じ。」

残照の色濃い空には、もう一番星も既に光を放っていた。

「あれって、木星?」

「だね。あと、その下にアークトゥールスがある。」

「えっ、どこ?」

「ほら、あそこの・・・。」

と指差された先に、確かに星が瞬いている。

「あれ、アークトゥールスなんだ。高っか。」

「ここまで来ると、だいぶ緯度が低いから。」

南の島では、星空の様子も少し違う。やがて、星が出揃ってくる。

「なんか北極星も低い。」

 屋上には寝椅子も並べて置かれていて、観望にはもってこいだった。他の泊り客も、入れ替わり立ち代わり、屋上へ登って来ては、星を眺めた。雲は絶え間なくは途切れ途切れに流れてきたが、夜空のどこかしらには星が覗いていた。周囲に人家はないから邪魔になる明かりもない。たまに通りかかる車のライトが眩しく感じられることはあっても、車は滅多に通らない。

 ただ一つ惜しむらくは、今は月の出が早いことだった。程なくして、ぽっかりと月が東側の山の稜線から顔を出した。黄色味を帯びた大きな月で、やがて山の端から全貌が現れると、少しだけ欠けているのがわかる。今朝、あの月がもっと淡い色で明け方の西の空に居るのを空港へと走るタクシーの中から見た時は、まだ自分は東京に居たんだ、と私は考えた。それが、今こうして同じ月が東の空から上がるのを南の島で眺めている。たった一日で、すごい変化だ。

 月の光が強くなりすぎて、星を眺めるのには適さなくなったので、私達は部屋に帰った。そして、買い込んできた食料品とアルコールを並べてささやかな宴を催した。

 機嫌よく眠りに就く前に、私達は注意深く目覚ましをセットした。

「起きられるかな?」

「起きないと。」

「もし、私が寝てたら絶対、起こして。」

 翌朝、まだ暗いうちに私達は起き出した。そして、懐中電灯を片手に外へ出た。宿から少し歩いてゆくと、道の両側の少し低くなったところに潅木の列がぼんやりとした影のように行く手に現れた。

「あそこ。あれ、あれ。」

と連れ合いが懐中電灯で差した光の輪の中に、ほんのりと紅色を帯びた白い花々が、いくつも枝から垂れ下がっていた。大きな房をなす花々は夢のように幽玄で、濃い闇を背景に幻のように浮かび上がっていた。時々、ぽとり、ぽとりと地面に花が落ちる気配がした。

「一晩だけ咲いて、夜が明けると散るんだ。」

私は落ちたばかりの花を拾い上げ、そっと手のひらに載せてみた。私の手の半分程の大きさがあった。落ちても花びらは崩れず、そのまま花の形を保っている。ふと背後で何かが鳴いた。キョロロロロ~という密(ひそ)やかな声だ。

「あれは、アカショウビン。」

 宿に戻ると、倒れこむようにベットに入り、二度寝した。次に目が覚めた時、部屋の中はすっかり明るくなっていた。コーヒーの香りが満ちている。隣のベットは空で、連れ合いはせっせと朝食の支度をしていた。台所にはエスプレッソマシーンがあったので、それを使ったらしい。

「今朝は、果物食なんだ。」

と並べられたテーブルの上には、鮮やかなドラゴンフルーツの赤紫があり、半分に割ったパッションフルーツもあった。パパイヤもパイナップルもバナナも。しかし、何より見事だったのはマンゴーで、まずは三枚におろして種の部分を取り除いた後、皮を傷つけないよう注意深く果肉に賽の目状にナイフで切れ目をいれてあった。それらを皮の側から軽く押し出してやると、果肉はいくつもの小さな菱形に芸術的な美しさで開いた。

「すごい。」

と私は本気で感心して呟いた。

「完璧な朝ごはんだね。」

朝食の後片付けは、その日の予定を相談しながら二人でした。

「まず平久保崎の灯台に行こう。」

「夜は、天文台。」

「うん。ただ、天気がどうかなぁ。」

果物を丸ごと切ると皮だの芯だの切れ端が大量発生するが、それらはまとめてあとで捨てられるように、ビニール袋の中にひとまとめにした。そこからはなんともいえない芳香が、いつまでも漂ってきて、私達に「世界一良い匂いのする生ゴミ」と呼ばれた。

 

祖母と羽織

 祖母を訪ねる時、私はしばしば着物を着て行く。私の着物姿を彼女が喜ぶからだ。祖母は着物好きだった。年を取ってだんだんと帯を結ぶのが億劫になってきたらしく、自分が着ることはめったになくなったが、孫娘がネットオークションで落札した古風なアンティーク着物を纏っている現れると目を細めた。私が戦前に流行した銘仙などを着て現れると、

「懐かしいわぁ。」

としきりに繰り返した。私は背が低くて、ちょうど昔の着物を着るにはぴったりの体型だった。着丈が短くておはしょりが取れなくなるようなこともなく、袖がつんつるてんになったりもしなかった。

 ネットオークションでは、運さえ良ければ古着が随分と安値で買えた。無論、多少の擦れや汚れ、染みなどがある場合も少なからずあったが、それらの欠点に関しては、喜んで私は目をつぶった。それに場合によっては、仕付け糸がついたままの着物に出会うこともあった。その着物のかつての持ち主は、どういうわけか自分の衣装をたんすの奥にしまいこんだまま、ついに袖を通すことがなかったのである。もったいない話だ。

 十月のよく晴れた日曜日、私は新しく手に入れた黒い総絞りの羽織を着て、祖母宅の門を叩いた。お土産にヨックモックのクッキーの缶と白百合の花を持って。

 白百合もまた、祖母が好む花だった。私はいつものように花を仏壇に飾り、祖父に向かって手を合わせた。それから、茶の間の祖母の所へ行った。祖母は、紅茶を淹れてくれている最中だった。私が羽織を脱ぐと、

「これに掛けて置くから。」

と祖母が衣文掛を片手にやってきた。そして、私から受け取った羽織を衣文掛にかけると鴨居に吊るし、じっと羽織を眺めた。

「素敵だわ。」

「でしょう?」

私はいささか得意になった。

「掘り出し物だったの。いくらしたと思う?」

「さあ・・・。」

「五千円。なかなかお買い得でしょ?」

祖母は、幾分か驚いた様子だった。

「そうなの。昔は、なかなか高価なものだったけど。」

彼女は、一旦、言葉を切り、そっと羽織の艶やかな絹地を撫でた。

「昔、私の若い頃、総絞りの長羽織が流行った事があって。」

と話し始めた。

「私も欲しかったんだけど、父が買ってくれなくて。お金がないんじゃないのよ。お金があるのに買ってくれなかったの。吝嗇(けち)だったから。」

祖母は、結構、口が悪く辛辣な人で、肉親である父親に対しても容赦がない。

「仕方ないから自分で買ったの。本当は紫の総絞りが欲しかったんだけど、緑のが安かったから緑の総絞りの反物を。」

祖母の父、つまり私の曽祖父は、貿易商であった。カナダを中心に取引をしていて、長く海外で生活していた。祖母もバンクーバーで生まれた。しかし、祖母が二歳の時、祖母の母、つまり私の曾祖母が結核にかかり、母子は帰国して鹿児島にある曾祖母の実家で療養生活に入った。しかし、間もなく曾祖母は亡くなった。彼女の最後の願いは、一人娘を

「幼稚園に入れてやって欲しい」

だったという。

「あの頃は、幼稚園に行く子なんて珍しくて、私の他にはお寺の男の子だけだったわ。」

そのお寺の男の子と手を繋ぎ幼稚園から帰る道すがら、祖母は、

「東京へ行ってごらん。豚が眼鏡をかけて新聞を読んでます」

と大きな声で唄いながら歩いたという。

「つまり、それくらい東京っていうのはすごい所だと思っていたわけ、当時は。」

曾祖母の死後、祖母は母の実家から、父方の伯父の家へと引き取られた。祖母は一人娘であったし、当時は、母親の死により母方の実家とは縁が切れたものとみなされ、父方の親戚の庇護に置かれることを余儀なくされたのだ。父親本人は、相変わらず日本とカナダを往復する生活で、娘の面倒をみるわけにはいかなかったらしい。

 祖母が引き取られた伯父の家は、材木商であった。商家であったから、毎日使用人やら何やら大勢の人が出入りしていたという。そこでの生活は、祖母にとってなかなか楽しいものであったらしい。年上の二人姉妹の従姉達が居て、よく祖母の面倒を見てくれた。特に上の従姉は優しくて裁縫が上手で、いつも祖母の女学校の縫い物の宿題を引き受けてくれた。しかし、やはり結核で若くして亡くなった。祖母自身も、あまり丈夫ではなかった。何度か大病をし、その後遺症で片方の耳がほとんど聞こえなくなった。周囲は彼女が余り長生きできないだろう、と考えていた。

「だから、自分でも意外だわ。この年まで生きるなんて。」

と祖母は真顔で言う。

女学校を出た後、祖母は地元の百貨店である山形屋の化粧品売り場に勤めた。化粧品についての知識を教えるために、東京から「マネキンさん」と呼ばれる若い女性達がわざわざやってきて祖母達若い売り子に化粧の仕方を伝授したりしたという。なかなか華やかな職場であったようだ。

「でも、朝は支度が大変で大忙しだったわ。勤めには着物で出てたから、帯は結ばなくちゃならないし、バタバタして。」

祖母が祖父と付き合っていたのは、この頃かららしかった。祖父は奄美大島の出で、鹿児島の旧制高校から東大へ進んだ。祖母は、東京の祖父の所へ遊びに行ったこともあるらしい。

「おじいさんは数学が専門だったから、家庭教師で随分お金をもうけていたの。だから、東京に行った時もご馳走してくれて。」

祖父が祖母を連れて行ったのは、銀座の資生堂パーラーであった。食事中もボーイさんがずっと背後に控えているので、祖母ははなはだ落ち着かなかった。食後、お手洗いに行くと、なんと水洗だった。水洗式のトイレを見たのは初めてのことで、祖母は勝手がわからず結局用を足さずに出てしまった。

 父親がカナダから帰国する時は、横浜の港まで出迎えに行ったりもした。土産は干し葡萄やチョコレートだった。そういった品々が、当時は珍しがられた。

 総じてこの時代の祖母は、暢気に楽しく暮らしていたようだった。しかし、父親の再婚を境にそれは急変する。

再婚後、祖母の父は日本へ完全に帰国し、故郷である田舎に新妻と暮らし始めた。祖母は相変わらず鹿児島の伯父の元で気楽に日々を送っていた。

「そしたらね、投げ文をした人が居たのよ。」

「ナゲブミ?」

「そう。父のところへね、自分だけ若い後妻と暮らして、娘は他所にほったらかして怪しからん、みたいなことを書いたのが投げ込まれてね。」

その投げ文がきっかけとなって、祖母は父親の元へ連れ戻されることとなった。勤めはやめさせられるし、仲の良かった下の従姉とも会えなくなるし、何よりも新しい継母との生活は気詰まりだしで、祖母にとっては迷惑この上なかった。

 ちょうど恋人の祖父は卒業間近であり、若い二人は結婚を考え始めた。しかし、ここでも障害が持ち上がった。一人娘の祖母は、戸籍を抜けるわけにはいかず、結婚にあたっては養子を摂る必要があった。祖父は長男ではなかったが、学士様に息子をなぜ養子になどやらねばならんのだ、と祖父の実家は猛反対であった。

 結局、秋田で祖父の教職の口が決まると、卒業と同時に二人は駆け落ちした。なかなか大胆な展開である。

「秋田に行って、初めて炬燵を見たのよ。ほら、鹿児島は冬でもせいぜい火鉢くらいで越せるから。少女雑誌に炬燵の挿絵が付いてるのを見て、どんなものだろうと憧れていたんだけど・・・。」

秋田で最初の息子が生まれると、その子を祖母の実家に養子としていれて跡継ぎにすることで、ようやく祖父母は入籍することが出来た。

「その後、大阪に移って、あなたのお母さんが生まれて。でも、戦争がひどくなって、おじいさんは兵隊にとられてしまったから、疎開するために私達は鹿児島に戻ったの。」

実家では、あまり歓迎されなかった。食糧事情も悪かった。ある日、祖母が二人の子供を家に残して用事に出かけたところ留守番していた妹(私の母である)がお腹が空いたと訴えた。困った兄は家中を探して梅干を見つけ出し、それを舐めさせて妹を宥めた。帰宅した祖母は、その話を息子から聞かされて、悲しくて泣いたという。

 幸い祖父は、大陸に送られるはずだったところを、「彼は、のちのち日本の学問のためになる人材だから」という恩師の口添えがあって、馬の世話係に任命され、終戦まで国内に残ることが出来た。そして、戦後、一家で東京に出て今に至る。そこから先の出来事は、既に私の知識の範疇である。

 改めて仏壇に飾られた祖父の写真を思い浮かべた。祖父母が駆け落ちしたなんて、それまで全然知らなかった。無論、二人にも若い頃があった筈で、恋愛だのなんだの、それにまつわる諸々(もろもろ)があっても不思議ではない。しかし、どうにもそれらが、目の前の背中の丸くなった老女である祖母とうまく結びつかなかった。祖母は思いに(ふけ)耽るように、再び鴨居にかかった羽織を眺めている。私は茶碗に残っていた紅茶を、飲み干し、台所で湯を沸かそうと立ち上がった。

異国の子

彼女は、いわゆる帰国子女だった。

「まだそんな言葉、その頃はなかったけどね。」

と彼女は笑う。

「だって、私、まだ五歳だったんだから。」

現在の彼女は落ち着いた物腰の中年女性で、僕からしたら随分と人生の先輩に見えた。彼女が小さな女の子だった姿なんて、ちょっと容易には想像できない。

「それに、居たのは一年だけだったし。」

「でも、むこうの言葉とか覚えてません?」

「ほとんど覚えてないなぁ。現地の幼稚園に通ってたから、当時は随分と達者に喋ってて、帰国直前には弟との会話もほとんどスペイン語だったらしいけど、帰国したらまたすっかり日本語に戻っちゃった。」

「それは勿体無かったですね。」

「まあねぇ。けど、言葉ってわりにそういうものじゃない? 日常的に使ってないとすぐ退化しちゃう。」

確かにその通りだ。彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、僕は頷いた。大学時代、随分熱心にやった第二外国語のフランス語も、最近ではかなり怪しくなっていた。

「じゃあ、むこうでの生活とかももう忘れちゃいました?」

「それがそうでもないのよねぇ。」

カップの縁に付いた口紅の跡を拭いながら、彼女は考え深げに首を振った。

「結構、覚えてるの。多分、子供心に色々と印象的だったんじゃないかな。日本とは全然違うから。」

「どんなところが?」

興味を引かれて僕は尋ねた。もともと他人の体験談を直接その本人から聞くのが好きだった。

「そうね、例えば、貧富の差、とか。」

「貧しい人が多いってこと?」

「うん、だって子供が働いてるんだもん。」

メキシコでは交差点で車が止まるとわらわらと少年達が寄ってきてフロントガラスをボロ布で拭き、小銭をねだる。街角でチクレと呼ばれるガムの箱を片手に売っているのもたいていは少年だ。

 そして、物乞いをする女達。道端にずらりと並んで座り、汚れたショールの中には大抵赤ん坊が抱かれている。両親から渡された数センタボの銅貨を褐色の手のひらにそっと落としてやる。その手は、かさかさに乾いていた。彼女は、その時の情景を今でもありありと思い浮かべることが出来るという。

「当時の私には、その母親達はとても年を取って見えたけど、でも、今にして思うと赤ん坊がいたってことは、そこまでの年齢じゃなかったはずよねぇ。それとも、あの赤ん坊たちは、本当は彼女達の子供じゃなかったのかしら。」

と、彼女は首をかしげる。そうした貧しい人々の大抵は、浅黒い肌に黒い髪、小柄で華奢な体つきをしたインディオと呼ばれる原住民の子孫達だった。

「一方ね、お金持ちは、日本よりずっとずっと大きくて立派な家に住んでて、庭もね背の高い鉄柵がぐるっと取り囲んでてて。」

 クリスマスが近づくと、ピニャータ割りという遊びをする習慣がかの国にはあって、それはどういうものかというと、大きな素焼きの壺に華やかな色紙を房状に切ったものを貼りつけて飾りたて、星だの動物だのの形を作り、中に飴だのチョコーレートだのガムだのと一杯に菓子を詰める。これがピニャータだ。それから、ピニャータを紐で縛って木から高くつるし、子供たちが皆で歌を唄いながら順番に棒を持って叩く。やがて、見事壺が割れると中に入っていた菓子が飛び散り、子供たちは我先にと夢中になって拾い集める。

「なんか楽しそうだな。スイカ割りと棟上式や結婚式の餅撒きや菓子撒きを合体させてみたいで。」

うんうんと彼女も頷いた。

「そうなの、そうなの。ちょうどそんな感じ。」

しかし、彼女がピニャータ割りのことをよく覚えているのはそれが楽しかったからだけではなかった。

 ある日、彼女は両親と共に誰かの家のパーティーに招かれた。

 その日も、庭にピニャータが用意されていた。壺が割れると、集まっていた子供たちは歓声を上げ、夢中で地面の上に落ちた菓子に群がった。無論、小さな女の子だった彼女も一緒になって熱心に拾った。本当は彼女の好物は、日本産の塩煎餅だの酢昆布だので、外国産の毒々しい色のキャンディの味は余り好きではなかったが、食べる食べないは別にして、そうやって拾い集めること自体が彼女の子供心をわくわくさせた。もう

 時刻は夕方で、冬の庭は既に薄暗かった。門の近くにしゃがみこんで、地面に目を凝らしていた彼女の目に不意に手が伸びてきた。それは庭の外、頑丈な鉄柵の下からだった。びっくりして顔をあげると、庭の外の路上にがやがやと数人の子供達がいた。柵の下から伸びた手は、懸命に指を伸ばしてその先に落ちていた金色の包み紙のキャンディを掴み取ろうとしてい彼女よりかなり年上に見える少年だった。薄汚いシャツを着た他の子供達も柵の隙間から細い腕を差し込んで、庭の端に落ちた僅かな菓子を掴もうとわいわい騒いでいた。彼女はその光景を目を見開いて眺めた。それからそろそあとずさり、そのままくるりと向きを変えると急いで大人たちの居る家の中へと駆け戻った。明るい室内は、人々のざわめきと喧騒と笑い声とたばこの匂いに満ちていた。いつもより華やかに着飾った母が、娘の小さな姿をみつけ、怪訝そうに近づいて、どうしたの?と尋ねたが、彼女はただ黙って首を振った。

「今でもたまに、その時のことを思い出しては考えることがあるの。」

彼女は組み合わせた手のひらの指先を胸の前でとんとんと叩きながら、遠い目をした。その爪は綺麗に磨かれ、淡い色に塗られて光っていた。

「私は庭の柵の内側に居てあの子たちは外側に居た。手が届きそうな程、お互い近くに居たけど、立場は全然違う。」

「キャンディがもらえる側ともらえない側と。」

僕は言葉を添えた。

「うん、そう。そういうこと。」

彼女は真剣な表情で頷いた。

「まだ五歳だったけど、私はその時、この世界の残酷さみたいなものを理解したの。なんというか、実感として。」

確かにそれはたった五歳の女の子にとって、なかなか重い体験だっただろう、と僕は考えた。少なくとも自分が五歳だった頃、そんな経験はしなかった。身近な周囲の子供達は、良くも悪くも、自分と似たりよったりの境遇にいた。そこには、決定的な差異のようなものをどこを探してもなかった。

「そういう体験は、その後の人生に何か影響を与えたりしましたか?」

彼女はしばらく考えんだ。

「どうなのかな・・・。よくわからない。でも、時々、今の生活を含めて、自分の人生がほんの偶然で成り立っているような気がするの。」

「それはつまり、ひょっとしたら、自分もキャンディをもらえない側の人間だったかもしれない、ということですか?」

「ええ、そう。そんなようなこと。」

「僕だって、ひょっとするとキャンディをもらえない側だったかもしれない、と。」

「まあね。誰だってそう。」

僕達はそこで沈黙し、この話題を切り上げた。思ったより遅い時刻になっていたので、僕はそろそろ帰ると暇(いとま)を告げた。

 コートを着て玄関を出ると、いつのまにか小糠のような雨が降り出していた。

「じゃあ、気をつけて。」

「ええ。」

「また電話するね。」

「うん、待ってますよ。」

僕は彼女に向かって手を振り、だんだん雨脚を強くして降りしきる冷たい雨の中を傘を差して歩き出した。

雪の朝の行進

大雪警報が出た。そして、予報通りに夜半少し前から、雪は静かに降り始めた。

「大雪になるみたいだね。」

「明日はまず雪かきだね。」

妻と夫は互いに頷きあい、窓ガラス越しに夜の外へと目を凝らした。道路は既に暗闇にもはっきりとわかるほど、白く雪に覆われている。見詰めている間にも、さらさらとした雪が、際限なく落ち続けて、裸の冬の木々の梢も、電線も建物の屋根も何もかもをも覆ってゆく。

「早起きしないとね。何時集合だっけ?」

「七時。」

「じゃあ、目覚ましかけとかないと。」

住んでいるアパートの駐車場は、住民が共同で雪かきする決まりになっている。

 そこは寒くはあるものの、雪はそれほど積もらない地方だった。冬の日、澄んだ空は真っ青に晴れ渡り、夜には怖いほどの光星々が鋭く輝く、そんな土地でだった。どこまでも底冷えがする。気温は毎晩氷点下に下がり、水道も干してある洗濯物も何もかもが凍る。しかし、湿気は少なく、たまに降る雪の量もさほどではない。これは暖かい地方からこの地へ越してきた彼らには、やや予想外だった。寒いところでは雪も多いものとなんとなく信じ込んでいたからだ。実際、彼らがここへ移り住んで四年になるが、記憶に残るほどの大雪の経験はない。せいぜい数センチといったところだった。しかし、今年は違った。ここ数年にない大雪の年になると予報され、県内のあちこちで記録的な積雪量が報じられた。それが今夜いよいよ、この街にもぶ厚く垂れ込めた鉛色の雪雲が押し寄せてきたのだった。

 布団の上では、彼らの小さな息子が目を閉じ、まつげの影をふっくらとした頬に落として、規則正しく寝息を立てていた。あと一月余りしたら、二歳になる。歩き出して以来、赤ん坊時代のふわふわとした肉付きはいつの間にか消えて、体つきもしっかりとしてきた。日中、動き回っている時は、もはや赤ん坊ではなくすっかり小さな男の子である。しかし、遊び疲れてぐっすりと眠りに落ち、濡れた唇をかすかに開いて呼吸をはじめると、たちまちそこには赤ん坊の頃の面影が戻るのだった。妻は幼い顔をそっと覗き込んだ。

「朝になって雪がたくさんなのを見たら、きっとびっくりするね。」

「うん。初めてだもんね。すっごく喜びそう。そりを買っとけばよかった。」

「ああ、そういえば売ってた。雪かきシャベルとか置いてあるとこに。」

「また、買いに行こう。紐が付いてたから、乗せて引っ張ってさ。」

「そういうのって、憧れた。」

妻も夫も、学生になってスキー場に行き、そこで初めて大量の雪を見た人間であったから、そりだの雪だるまだのかまくらだの、想像するだけで限りなく憧れがむくむくと膨らむのであった。

 その夜、雪はしんしんと降り続け、街中のあらゆる場所をすっぽりと白く覆いつくした。

 冬の遅い夜明けはまだ遠く、部屋の中は薄暗かった。最初にむくりと起き上がったのは、夫の方だった。カーテンを少しだけ開いて外へ目を凝らし、それから、大急ぎで妻の布団の横に膝を着くと、ちょんちょんと肩をつついた。

「ねえねえ、すごいよ。」

寝ぼけ眼(まなこ)で妻は彼を見上げた。

「雪すごい。真っ白。」

弾かれたように飛び起きると、彼女も窓際に飛んでいった。

「ほんとだ、すごいすごい。」

興奮するのも無理はなかった。一夜にして、雪は外の景色を変えてしまったっていた。街は、一面の砂糖菓子で出来上がっていた。雪は既にやみ、視界の中で動くものはなかった。街灯の明かりに照らされて、青白く光る吹き溜まりがそこここに積みあがっている。道路にも歩道にも、足跡一つ、轍(わだち)の一つも残されてはいなかった。まだだれも手を触れていない雪景色だった。

「車、使えないね。」

「多分、そのうち除雪車が来るよ。そしたら、通れるようになるよ。」

「そっか、そうだね。でも、なんか勿体無いね。」

新雪だもんね。」

声を押し殺して喋っているつもりだったが、思いのほかうるさかったのか言い合っている二人の背後で身じろぎする気配がした。はっと振り返ると、目を擦り擦り、息子が布団の上にちょこんと正座していた。

「ああ、起きたの。」

寝起きの今にも泣き出しそうな気配に、妻は素早く幼子を抱き上げた。

「ほ~ら、見て見て~。すごいよ~。」

あやしながら窓の外を見せても、男の子はきょとんとして母親の顔と水滴に濡れて光る目の前のガラスを交互に見比べるばかりである。

「わかんないみたいだね。」

「ちょっと、わかりにくいかも。」

「暗いしね。」

夫はしばし思案の後、

「連れて行かない?」

と提案した。

「外に?」

「うん。除雪車とかが来る前にさ、まだ誰も踏んでない所を歩かせようよ。」

「それ、いいね。」

早速、息子にスノースーツを着せ手袋をはめ、フードの上からぐるぐるにマフラーを巻き、仕上げに小さな長靴をはかせた。まだ暗いので懐中電灯も用意して、準備は万端であった。

ドアをそっと閉じて、息を殺して階段の踊り場を降りた。外に出ると、外気の冷たい空気がさっと頬を刺した。耳が痛くなるほどあたりはしんとして、大人二人が雪を踏みしめるとぎゅっぎゅっというくぐもった音だけがいやに響いた。いつもと違う気配を察したのか、父親の腕に抱かれた男の子は、目を丸くして父親の上着の襟を掴んでいる。

 深く雪の積もった広めの歩道に出たところで、

「ほい、もう歩いてよし。」

と下に降ろされても、しばらくそのまま固まっている。それから、街灯の光が照らし出す丸い輪の中で、その場にしゃがみこむと手袋をはめた小さな手のひらで不思議そうに真っ白な雪の表面を撫でた。それから、不意に何かに気が付いたかのように喜びの声をあげると、立ち上がり、長靴のつま先で雪を蹴った。サラサラした粉雪が飛沫のように散った。そして、とっとっと、と勢いよく歩き始めた。両親はその後ろを見守りながら付いてゆく。男の子が着ているスノースーツは、紺色に白が入っていて、着膨れてトコトコと歩く後ろ姿はさながらちょっと大き目のペンギンのようだった。青白く光る手付かずの雪の上に、元気の良い影法師が揺れた。吹き溜まりに足を取られそうになるたび、慌てて両親が左から右からはらはらしながら手を取って支えたが、すぐに繋いだ手を振り振り払って一緒に歩くのを拒んだ。そして、嬉しそうにまた一人で先に立って歩き出した。

「なんだかちゃんと目的地があるみたいな歩き方。」

「きっとポストじゃない。」

「ポスト?! なんで?」

意外すぎる妻の言葉に、夫の声はちょっと大きくなった。

「最近、お気に入りでさ、散歩の時にも買い物の時にも必ず寄るんだよね。」

果たして男の子が目指していたのは、四角くて赤い郵便ポストであった。雪を掻き分け掻き分け、ようやくたどり着いたポストの冷たい鉄の表面を男の子は満足げに手のひらで叩いた。そして、さも得意そうに両親の方を振り返った。

 いつのまにか静かな黎明が空には広がっていて、ぼんやりと雲の内側から光が差し、もののあわいがぼんやりと見え始めていた。街も少しづつ起き出す気配がして、遠くで車のエンジンがかかる音が聞こえ、新聞配達が苦労して雪の坂道をバイクを押して登って来る。

「そろそろ帰る?」

「うん。雪かきもあるしね。」

父親が抱き上げると、男の子はイヤイヤと頭を振って、手足をバタバタさせた。ポストに向かってなおも懸命に手を伸ばそうとする。

「また、来よう。今度はそり持って来よう。あ、その前に買いに行かなきゃ。」

男の子はそんな父親の言葉をわかっているのかいないのか、それでもそのうち諦めて大人しく抱かれた。そして、その腕の中から一面に広がる白銀の世界を黒目がちの瞳でいつまでもじっと見詰めていた。

指輪

 駅前にあるイトーヨーカード前に買い物客が休息するためのベンチがいくつかおかれている。そのうちのひとつに腰を下ろしている女性の手元を、私は少し離れた場所からじっと見詰めていた。あまり不審がられないように、怪しい人物だと思われないように、さりげない風を装いつつ、しかし、私は真剣に彼女の指にはまった明るいオレンジ色に輝く宝石を眺めた。その女性はごく一般的なみなりで、年齢は初老にさしかかったあたり、がっちりした小太りの体格で、私が吸い寄せられるように目を離せないその指輪も、太い指にがっちりと食い込んでいた。

 彼女の指輪がなぜそんなにも私を引きつけたのかといえば、それまで私がオレンジ色の石というものを見たことがなかったからだ。透明なのはダイヤモンド、ルビーは真紅だし、エメラルドは緑、サファイアは紺、私の誕生石であるアメシストは紫・・・。

「ねえ、ママ、もう行こうよ。」

「行こ~。」

左右から次男と長男に繋いでいた手を引っ張られた。それぞれの全体重をかけた重みに私は俄かに我に返り、促されるままに歩き出した。地下の食料品売り場で買い物をしながらも、先ほど見た石の色が目の奥に焼きついて、消えなかった。

アンパンマンのパン買う?」

長男に尋ねられ、私は機械的に頷いた。

「うん、一つづつね。どれがいい?」

 パンを選び終えると、今度は息子たちはどちらが買い物カートを押すかで騒がしい小競り合いを始めた。それぞれが互いを押しのけあって、小突かれた方が怒って地団太踏む。

「ね、ほら、よしなさい。もうレジ行こう。」

周囲の人目を気にして小声で叱りつつ、買い物もそこそこに私は子供達を引っ張り、逃げるようにして賑やかな売り場を足早に離れた。

 翌日、子供達を幼稚園に送った後、私は昨夜熟考した末にたどり着いた結論を実行に移した。百貨店に電話してみたのだ。宝石店は知らないが、たまに行く百貨店になら宝飾品売り場があるはずだった。

 私の読みは当たった。名前はわからないが、明るいオレンジ色の石を探している、と告げると、電話口で話を聞いていた宝飾品売り場の担当の人は、

「それでしたら、おそらくメキシコオパールかと。」

と自信ありげな声ではきはきと断定した。

「ああ、そうなんですか・・・。」

こうも即座に石が挙がるとは予想していなかったので、いささか私はびっくりした。

「こちらの売り場にも数点ご用意しております。よろしければ、ご覧になりますか?」

テキパキとした口調でそう問われ、一瞬、私は考え込んだ。それまで、私は自分が単にその石の名前を知りたくてわざわざ電話を掛けているのだと思っていた。自分が売り場に行くことなど、全然考えていなかった。しかし、こうして尋ねられるてみると、実のところ、自分がどういようもなくその石を欲しがっているということに気付いた。昨日、あの女性の指にはまった指輪を見たその瞬間から、私はそれにひどく魅了され、この上ないほど強く求めていたのだ。今日のお昼前ぐらいに伺います、と私は返事をして電話を切った。

 宝飾品売り場などこれまで足を踏み入れたことはなかったからいささか気後れした。婚約指輪も結婚指輪も買わなかったので、全く縁がなかったのだ。しかし、担当してくれた売り場の若い女性は親切な物柔らかな態度で、あらかじめ用意しておいてくれたらしい三つほどの指輪と、ネックレスを二つ見せてくれた。

 私が探していたオレンジ色に輝く宝石が、目の前にあった。どれも丸や楕円の形に整えられて、オレンジ色の中にかすかな緑や黄色が入り混じり、複雑な光を放っていた。指輪はそれぞれが少しづつ違ったデザインだった。石の大きさが違ったり、周囲に飾られた屑ダイヤの配置が微妙に異なったりしていた。そのそれぞれを注意深く私は眺めた。

「よろしかったらはめてご覧になられますか?」

勧められるままに、私はひとつづつ指輪を試していった。自分の指にオレンジ色の冷たい炎が灯るのをためすがめす、じっと眺めた。

 選ぶのに、それほど時間はかからなかった。

「これにします。」

私が指差したのは、円形のメキシコオパールの指輪だった。石の両脇に小粒のダイヤがいくつかあしらわれている。

「あ、はい。」

店員の女性は、いささか驚いた様子だった。私がこんなにも即決するものとは思っていなかったらしい。しかし、私には逡巡する必要がなかった。最初から、石を手に入れると私は決めていたからだ。幸いにも、ちらりと素早く見ておいた値札は、手の届かない額ではなかった。オパールは、比較的安価な宝石だった。少なくともダイヤモンドやエメラルドに比べれば。

「それでは、サイズを測らせていただきます。あと指輪にお日にちですとか刻印するサービスも承っておりますが、何かの記念とかでいらっしゃいますか?」

当惑して私は首を振った。記念日?そんなこと、考えたこともなかった。そもそも誕生日でも結婚記念日でもなんでもない。

 幼稚園のお迎えの時間に間に合うように、それから慌てて私は帰宅した。以来、それからの日々を数日後には出来上がってくるという指輪を楽しみに、私は過ごした。二人の幼い男の子達の世話は、いつも通りに気忙しく、慌しく、夜にはすっかりくたびれ果てたけれども、それでも、何かしら心に浮き立つような思いがあって、朝になれば無理やりにでも布団から起き上がることが出来た。ああ、自分はだいぶ疲れていたのだな、とようやく私は気付いた。毎日の疲労が、少しづつ少しづつ目に見えない負債のように積み重なっていっても、次々と降りかかる雑事に追われるように生活しているとそれに気付く余裕もないのだ。それに、私の日常は、どの母親もこなしている程度の労力を費やしているに過ぎない。

 でも、ここ数年で私はこんなにもクタクタになっていたのだ。夜、泥のように眠っても、朝、子供たちの騒がしい声にもなかなか目が開かないほどに、精神も肉体も擦り切れるだけ擦り切れ、疲弊し・・・。しかし、そんなことは、誰にも言えない。言ったところで誰にもどうにもできないし、愚痴ったところでどうにもならない・・・ああ、そうか、と私はすとんと腑に落ちた。だから、私はあの石が欲しかったのだ。

 指輪が出来上がってきた日、私はいそいそと袋から小箱の取り出し、蓋を開けた。オレンジ色の炎のような光が私の目を射た。そっとはめてみると、その冷たく明るい小さな炎はそのまま私の薬指に宿り、強く眩(まばゆ)く煌(きらめ)くと、その光が自分の心をしっかりと守護するのを私は確かに感じた。